快楽亭ブラック師について私は、以前にエントリーを書いています。
<快楽亭ブラックのことなど>
彼が演じる噺の演目には少なからず「差別語」が出てまいります。本来なら「ヘイト」に数えられる「朝鮮人の恩返し」などというものまであります。
何故これらの演目を、私達は笑って聞いていられるのか、というと、実はここにこそ「深い理由」があります。それはブラック師自身が「あいのこ」だからです。考えても見てください。これと同じ演目をブラック師以外の噺家、例えば立川キウイがやったらどうなると思います?袋叩きでしょう。いや、それでは済まない、彼は落語会から「追放」処分になるのではないでしょうか?
余談ですが、立川キウイを聴きに行く「少数の客」とは、私の想像では「ネトウヨ」ではないかと思っております。ネット上での彼の「主張」に感銘を受けた少数のネトウヨが、下手な芸を見に行く。そういう構図なのだろうと思っております。
話を戻します。私は以前「差別語について」と題してエントリーを書きました。
<差別語について>
その中で私はこう書きました。
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その竹山が自分を指して「めくら」と呼ぶのは自然である。おそらく自分に対して投げつけられてきたその言葉は、もはや彼にとってアイデンティティそのものでもあったのではないだろうか?それほど昔はごく普通に用いられていた言葉であった。本来この「めくら」という言葉は「悪罵」「蔑み」として投げつけられる他に「おめくらさん」のように「同情」を込めた使われ方もされていたに違いないのだ。
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これを分かり易く説明するとこのようなことになります。例えば大卒者が高卒者に対して「あなたは高卒者だから云々」というのと、高卒者が「私は高卒ですんで・・・」というのとは、自ずからニュアンスに大きな隔たりがある、ということです。本人がある意味「自虐的に」言っていることを真に受けて、それを本人に向かって不躾に言うべきではないでしょう。それを平気で行なっているのがネトウヨどもであります。彼らは「」も何も付けずに「シナ」「シナ人」「チャンコロ」を連発する。まさに品性下劣としか言いようがない。
ブラック師の噺には、差別語による「くすぐり」が、いたるところに顔を出します。また、地方出身者やお国訛りをおちょくる話もあります。我々はそれを笑って聴いていても一向に構わない。落語とはそういうものだからです。そういう「約束ごと」になっているからです。談志が「現代落語論」でいみじくも定義した「人間の業の肯定」という落語の姿を、最も体現しているのが、この快楽亭ブラックという噺家ではないのかと思っています。尤も彼は立川流を破門になっているわけですが(笑)。
以下もよろしければご参照願います。
<差別語についての再考察>
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