2014年01月18日

「安田浩一氏vsネトウヨY氏の騒動が示す『ネット弁慶』の正体〜ネットウヨク論:番外編」考


表題の「安田浩一氏vsネトウヨY氏の騒動が示す『ネット弁慶』の正体〜ネットウヨク論:番外編」を読んだ。以降「番外編」と、略させたいただく。

http://n-knuckles.com/serialization/series/news001078.html

さて、このようにツィッターのみを「ネタ」に書かれた記事が、ニュースやドキュメンタリーに分類されるのは「如何なものか」と思うのである。この「番外編」の場合は、せいぜい「エッセイ」ではないかと思う。でなければ「たかしズム」のような「ブログ」であろう。尤も「たかしズム」においても「ボーナスニュース」と銘打った記事があるわけだが(笑)。「東京Breaking News」というタイトルも、その程度の「雑文集」という意味なのかもしれない。

さて、ここで「番外編」を執筆している荒井禎雄氏だが、私は彼の言っていることに「あらかた」賛成である。ヨーゲンの「心理分析」なども的確である。しかし、彼の「取材」には2,3の事実誤認があるので、指摘させていただく。

まず、ヨーゲンは、公衆電話から安田浩一氏に電話をかけてはいない。かけたのは別のネトウヨであり、ヨーゲンは、安田氏のそのツィートに「便乗」する形でメンションを送ったにすぎない。例によってヨーゲンの文章が幼稚で意味不明だったために、荒井氏が「ヨーゲンが公衆電話からかけた」と勘違いしたのだろう。

もう一つ。「彼(ヨーゲン)や仲間達は『安田をマフィアを使って殺す』といったアウトな発言をしてしまっている。」という箇所からは、ヨーゲンは除かなくてはならない。マフィアやオウムの村井殺害事件を引き合いに出して、悪質な脅迫を、安田氏に執拗にツィートしているのは、ヨーゲンではなく、その「手下」のひとりである。

参考記事
http://ameblo.jp/takashicyan/entry-11747424499.html
http://ameblo.jp/takashicyan/entry-11747795806.html

「番外編」の、それ以外の論調については、私はうんうんと頷きながら読み進んだのだが、最後にこのような記述が眼に飛び込んできた。

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言論の自由とは、何でも好き勝手に言葉を発していいというだけではない。発した言葉に対する義務・責任が常に付いて回る。その覚悟があるならば好きにしていいよ、というのが言論の自由の意味だ。だから極論を言えばどんなに酷い差別的な言葉であっても、それを発する事自体はその人の自由である。ただし、その言葉を発した為に何らかの罪に問われても、それもまた当然なのだ。
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前段はそのとおりだと、私も思う。問題は最後のパラグラフだ。

「ただし、その言葉を発した為に何らかの罪に問われても、それもまた当然なのだ。」

彼は「極論」というエクスキューズを挟んで入るが、これは明らかにおかしい。「罪に問われても当然」ではなく「罪に問われないのが当然」というのが正解である。勿論「ヘイトスピーチ禁止法」などの法律が制定されれば、彼の言うとおりである。しかし、その種の法律の策定には余程の「慎重さ」が必要であることは、言うまでもない。おそらく、たぶんこの場合「ヘイトスピーチ」について論じているから、彼は簡単にこのような文章を書いてしまったのだろう。でないとしたら、荒井氏は言論の自由の意味を、完全に履き違えている、と言わざるをえない。もし荒井氏の言うとおりなら、戦時中の「治安維持法」も正しいということになってしまう。小林多喜二が拷問されたのも「当然」ということになってしまうのだ。さらに次の文章で、驚くべきことに、荒井氏が典型的な「どっともどっち論者」であることが、はっきりしてしまう。

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 Yを追い込んでいる人間の殆どが「反レイシズム」を謳っている面子だが、万が一の事があった場合に「反レイシズム運動」そのものに疑惑の目を向けられる事にもなり兼ねない。 確かにYは石を投げ付けるのに面白い的なのかもしれないが、具体的な被害を受けた人間でもない限り、お祭り気分で攻撃するのは控えるべきだろう。それでは鬱憤晴らしで「朝鮮人をコロセ!」と叫んでいるネットウヨク団体らと何も変わらない。少なくとも、世間は在特会も反レイシズム運動もどっちもどっちと看做すだろう。虐げられている弱者を助けたいと運動している連中が社会から疑われては、助ける対象の弱者が今以上に不利益を被る結果になる。 せめてそこまで考えてから公の場で行動すべきだ。

「(自分達が認定した)レイシストには多少暴力的な対応をしたって構わない」

「アイツは(自分達が認定した)レイシストだから石を投げる的にしたっていい」

 ↑これらも立派な差別だという事が解るだろうか? 差別問題がいかに根深く複雑なのか理解しているなら、Yに対する対応を間違えれば自分達の首を締めると気付けるはずだ。自分達に都合よく「差別・被差別」を使う輩があまりに多かったから、差別反対の声を挙げるという当然の行為を忌み嫌う日本人が増えてしまったという歴史をお忘れなく。
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ヨーゲンとアンチヨーゲンを「どっちもどっち論」で、一刀両断しようとしている。

なお「どっちもどっち論」について、私はここで再び詳しく述べることはしない。以下のエントリーを読んでいただきたいと思う。

<「どっちもどっち論」の皆様へ>
http://takashichan.seesaa.net/article/357639647.html




posted by takashi at 14:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | 幽玄佐東(@Yougen_Sato) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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