入院中に読むために、数冊の本を持って行った。前述の古森義久産経新聞記者の本も、実はそのうちの一冊だが、一番の楽しみにしていたのは若杉冽著「原発ホワイトアウト」である。この際、じっくり読んで、感想文でも書いてやろうと心に決めて、持ち込んでいた。予想通り、プロローグから引き込まれる作品であった。
現在の日本の社会状況とほぼ同時進行で語られる内容は、この作品が極めて短時間の間に練られ、執筆されていったという事実を物語っている。いわゆる「暖められたテーマ」ではなく、タイムリーなテーマであって、それでいてこの完成度。もしこの作品が「第一作」だったとしたら・・・。このことは、作者の並々ならぬ「筆力」とともに「頭脳の明晰さ」を示している。尤もそれは彼の学歴と肩書が物語っているが。
作者は「大衆」「衆愚」という言葉を、この物語の至るところで使っている。もちろん作者自身では無く、登場人物である官僚の言葉として言わせているわけだが。小説という文章形式がこの場合、非常に「有効」であることがよく分かる。読者は、登場人物の「衆愚」という言葉を聞いて、作者ではなく、一義的にはその言葉を使っている登場人物に腹を立ることになる。そして重要なのは、この本の作者が紛れもない「官僚」だという点である。つまり作者は、官僚の多くがこのような思考をしているのだ、このように(愚かな)大衆を見ているのだということを、自分の経験から私達に教えてくれているのである。
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「原発事故もいやだけど、月々の電気料金の支払いアップも困りますよね」
と、ワイドショーのコメンテーターが呟けばよいのである。大衆は、ワイドショーのコメンテーターの言葉が、翌日には自分の意見になるからだ。(七九ページ)
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私達は、この記述に怒らなくてはいけないのだ。作者はこの「怒り」を私達に呼び起こすために、この作品を書いてくれている。「民自党」の「描写」はもっと手厳しい。
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官僚主導から政治主導へ、との掛け声で始まった民自党政権は、政治家一人ひとりの資質はともかく、集合体として見れば、政治の素人、烏合の衆であった。烏合の衆による政治は、東日本大震災の被害、原発事故により、さらに混乱を極めた。(一九ページ)
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さらに、個々の民自党員が、如何にして官僚や電力、財界に、懐柔され取り込まれていったか、を克明に描写している。彼らの信念のない「ええ格好しい」が、どれほど空虚で信念のないものであったかが、見事に活写されている。言うまでも無く「民自党」とは「民主党」のことである。
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本来、官僚は国益の実現のために働き、マスコミ記者は社会正義の為に働く。こうした大義を背負う尊い職業であるにもかかわらず、現実には、自らの省益や社の利権、挙句の果てには、上司の私服を肥やす手助けや、幹部の快楽のために、国益や社会正義がなおざりにされる。
こうした理不尽さに不満を重ねる官僚や記者たちがいる。そうした不満のガスの圧力が高まり、その食を賭して暴発するものも一部にはいる。(八六ページ)
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そうして、古賀茂明氏の名前を実名で挙げる。もちろん作者自身もこの「暴発者」の一人であることは言うまでもない。私は、この「原発ホワイトアウト」の作者、若杉冽氏の「正体」が、彼の職場で明らかになるのは時間の問題だと思う。その場合彼に、不当な懲罰が下されないように、見守っていく必要があるだろうと、私は思っている。我々は、そのような場合、ただちに抗議の声を、政府に対して上げなければいけないだろう。
文章は、この種の小説の文章で「ピカ一」の森村誠一には及ばないものの、充分に読みやすく分かり易い。実際「テニヲハ」のおかしな小説家は多い。特に、いわゆる「純文学」に、その手の文章が見られるが、それらは、一般に「欠点」ではなく「個性」とみなされる場合も多い。しかし、企業小説、犯罪推理小説などの大衆文学では返ってその点、読みやすい「明快な文章」が要求されることが多い。
<何故「小説」という手法を選んだか?>
まず何と言っても「スラップ訴訟の回避」だろう。同様のいわゆる「企業小説」が、これまでスラップ訴訟を仕掛けられた件数は、極めて少ない。スラップ訴訟に引っかかるのは「実名」で書くドキュメンタリー作家が多い。森村誠一は、生涯で一度だけ書いたドキュメンタリー「悪魔の飽食」で、七三一部隊を取り上げことが仇となって、訴訟にこそなっていないが、内外の批判にさらされた。たった一枚の写真誤用を理由に、作品の「全価値」を否定するという、ネトウヨ的手法による「報復」であった。関係者が殆ど物故者であるのにも拘わらず、この有り様である。他の作品では、どれほど「事実」に取材したものであっても、攻撃や中傷や訴訟は受けることは殆ど無い。
その意味で、若杉冽が、本作品を「小説」として書いたのは賢明な手法だったといえよう。たとえ裏が取れていなくともフィクションならオーケー、細部が憶測であってもフィクションならオーケーという「暗黙の了解」が、この世の中にはあるからだ。名誉毀損などの生じることの無いよう、充分に法律家とも摺り合わせているはずだ。
<この小説の功罪>
この小説には、断然「功」のほうが多いのだが「罪」もある。それは、警察組織の手口をあまりに「こと細か」に記述してあるが為に、一般の読者に「デモの怖さ」を植え付けてしまっていること。それと、この作品の結末が「愚か者」たちの差別意識に油を注がないか、ということ、等など。「功」の方は、数々あるが、その中でも特捜部の手口を、いわば「予告」している点だ。これは明らかに現実における、新潟県泉田知事への国家権力の弾圧に対する「抑止力」になったのではないかと思う。こうまで詳細に権力の「やり口」を暴露されてしまうと、実際に手を出すのは難しくなるのに違いない。あと残るのは、直接的な「脅迫」ぐらいのものだろう。
それにしても、すべての場面が精緻にリレーションされていて、しかも、もうこれ以上削れないほどに贅肉を削ぎ落とした文章。読むものをグイグイと、あの絶望的なエピローグへ向かって引っ張っていくドラマ構成。限りない余韻を残して・・・。この作者は到底、本作品が処女作ではないだろう。出版されているかいないに拘わらず、これまでも優れた習作を何本も物にしているだろう。忙しい官僚の仕事をしながらの執筆と、そのための取材。一体いつの間に出来るのか?彼はこの才能で充分食っていける。だから「天下る」必要もない。そんな官僚であるからこそ書けた作品なのだ。本作品が「賞」を総舐めするであろうことは間違いない。
最後に。この本を「真性のバカ」を除いた、国会議員の全てに読んでもらいたいものだと、強く思う。ちなみにここで言う「真性のバカ」とは「自民党、民主党、公明党議員の大半」と、各党の「タレント議員の大半」のことである。また、一日も早く、誰かが映画化して日本中の「衆愚」どもに公開して欲しい。誰もやらないのなら「外資」例えばドイツの映画会社でも良い。もし上映されたら、脱原発にとって、これ以上の「カンフル剤」は無いと思うからだ。
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国の政治は、その国民の民度を超えられない。こうしたことが当たり前のように行われていることを許している国民の民度は、その程度のものなのである。(二三一ページ)
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