2013年12月19日

ODA再考(ネトウヨ記者古森義久の論理)


日本のODAについての問題点は以前、以下のエントリーで述べた。

<ODAの正体>
http://takashichan.seesaa.net/article/365098922.html

<彼我の「あまりの違い」日本とドイツ>
http://takashichan.seesaa.net/article/364855330.html

ここに、一冊の本がある。産経新聞の古森義久という記者が、「正論」「SAPIO」「産経新聞」などの、名だたる「右翼媒体」に書き散らかした自らの文章を、PHP新書にまとめたものだ。題して「ODA再考」。「再考」と銘打つからには、以前にも書いているのかと思ったが、その形跡は無い。この本は2002年に出版されたものであり、その後のデータとはかなり乖離しているはずであるが、その当時の判断としてこの本に書かれている著者の「主張」は、ただひとつ。簡単に言ってしまうと「中国に対するODAは、すべきでない。日本にとって何の国益にもならないから」ということである。これを新書一冊分の文字数を費やして述べているだけ、なのである。

彼が「必要ない」とする主な理由を、著書からかいつまんで挙げてみると次のようになる。
1.中国政府には、日本のODAは、ちっとも感謝されていない。
2.中国国民は、日本が中国に多額の資金援助していることすらも、中国政府から知らされていない。
3.援助で建てられた施設の碑文などには、日本の援助で建てられた記載はないか、あっても戦争の謝罪として当然、などと書かれている。
4.日本が援助しているせいで、浮いた予算を軍事費に回している。
こんな感じだ。ま、要するに「感謝されていない」というのが、彼の最も気に入らないことのようなのである。
日本から中国に与えられている援助は、古森記者「自身」も書いているように「無償援助」ではない。「円借款」である。金利は低くとも、いずれは返してもらう金である。ちなみに何度も言うようだが、日本は中国に対し無償の「戦後補償」は、一銭足りとも行なっていないのだ。そこがドイツとの決定的な違いだ。多少ウザい作業だが、古森氏のこの本のプロローグから書き出してみる。

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私はODAショックを体験した。

中国で日本のODA(政府開発援助)の現実を知ったとき、強烈な衝撃に襲われたのだった。

日本が「日中友好」のスローガン下に、国民の血税をあれほど注ぎ込んで、二十年も、せっせ、せっせと中国に贈ってきた巨額の経済援助は中国の国民の認識レベルでは存在ゼロ、まぼろし同然なのである。※注)日本政府の「ODA外交」という言葉と、実際にその対象となるODAの受け手側の実態と、これほど落差があるとは思わなかった。
※注)私などは、日本が南京虐殺を「まぼろし」と言い続けてる以上、中国が日本の援助は「まぼろし」と主張する権利はあると思うのだが。

ODA、わかりやすく言えば外国への経済援助は日本の外交の大きな柱とされる。まして中国との関係では毎年、日本から供与される巨額の援助は対中外交の最大の支柱となってきたはずだった。

だがかんじんの中国側ではどこをみまわしても、日本からの援助という「外交」の実態はツユほども伺われないのだ。その存在や成果が全く感じられないのである。

(中略)

北京に着く前の私の認識はこのへんのところまでだった。その範囲で対中ODAの効用について考えてもいた。そして日本がこれほどの異例の大盤振る舞いして与えつづける巨額の援助ならば、それなりに顕著な成果があるのだろうと想像していた。

ところが、中国の現地での実情はそんな想像とあまりに異なっていたのだ。

中国は日本だけでなくアメリカ以外の他の先進国からも経済援助を受けとっている。世界銀行やアジア開発銀行というような国際機関からも経済援助を受けている。だがそのなかでは日本からの援助は群を抜いて、圧倒的にトップの金額なのである。

だから日本からのODAというのは中国でも少なくても話題にはなっているだろうと思っていた。ある程度は感謝もされているだろうと思っていた。少なくとも日本からのODAに言及する人たちがいるだろうとも思っていたのだ。だがだれも日本からのODAなど話題にしないのである。

北京にいるだけでも、日本の対中政策を少しでも知っている人間には日本からのODAの規模のものすごさが分かる。北京という都市の主要部分がほとんど日本からのODAによって建設されたと言っても過言ではないからだ。
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さらに本の「第三部」ではこのようなことを書いている。

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ちなみに日本側への賠償請求は七ニ年の国交回復の際に、当時の周恩来首相がはっきりと放棄した。だがなお中国側には日本が損害賠償をなんらかの形で支払うべきだとしる意識があるのだろう。

私自身、中国のそんな意識をまざまざと感じさせられたことがあった。九九年二月の厳寒期、北京から北東へ百五十キロほどの河北省興隆県の山村を訪れたときだった。

大水泉郷というその村は山また山を超えた僻地にあり、中央政府から貧困地区に指定されているだけあって、黒澤明関東のモノクロ映画『用心棒』の舞台のような荒れ果てた寒村だった。日本政府はその村の中学校の校舎建設に一千万円の「草の根援助」を与えていた。

(中略)

大水泉中学校では秘本の資金で四階建ての校舎が完成し、校庭には「校舎落成記念碑」が立っていた。碑文には以下のような記述があった。

「大水泉は旧抗日拠地であり、わが住民は戦争の苦難と『無人区』(日本軍による殲滅地域)の苦痛を蒙った。日本の資金でいま新校舎が建てられたのは日本人民の旧抗日根拠地人民に対する一衣帯水の情を示す」

戦争の苦痛と日本の援助を因果関係としてはっきり結びつけているのだ。援助を明らかに戦争による中国住民の苦痛への賠償として性格づけているのである。

興隆県訪問の日本側代表だった北京の日本大使館の杉本信行経済部長はその場でただちに中国側に抗議した。

「日本の対中援助は戦争の賠償ではありません。あくまで現在の日中両国の友好や中国の経済開発を目的としているのです。だからこの種の碑文は援助の趣旨に反します」
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この大使館員「バッカじゃなかろか」と、私は思うわけである。相手が「日本の資金でいま新校舎が建てられた」ことが「日本人民の旧抗日根拠地人民に対する一衣帯水の情を示す」ものだと思い、そう言ってくれるのであるならば、そういうことにすればいいじゃないか?何でしないのか?中国が日本に求めているのは、まさにそういう身の処し方だと、何故に気が付かないのか?何やら、趣旨の怪しげな「現在の日中両国の友好や中国の経済開発を目的」とする「援助」としてではなく、日本の援助は、日本の戦争責任への「謝罪」だと、彼ら自身が「受け取りたい」と、そう言っているのだ。だったらそのように受けとって貰えばいい。

中国に「援助」が現在必要かと問われれば、私も要らないと答えるだろう。ただし私が挙げる理由は古森記者が挙げることとは、質的にかなりの隔たりがあるが。それでいて結論を言えば、同じ「必要ない」なのである。さらに、これも古森記者「自身」が書いているのだが、日本のODAはそのほとんどが「紐付きODA」なのである。「紐付きODA」については頭書に挙げたエントリーに書いてあるので見て欲しいが、要するに、受注すなわちカネが日本国内の大企業に回ってくる、いわば「八百長援助」だということなのだ。早い話が、ゆうちょ、簡保などの国民の資産・掛け金を、国内の大企業に「還流」させているに過ぎない。

しかし、実際の成果物は、中国国内に残るわけだから、その意味では「援助」にはなっているだろう。さらに、それらのインフラの「整備維持費」も、建設費同様大企業に「還流」するのは言うまでもない。

私には、古森記者の発想が、まず到底理解できない。日本のODAを、相手が「戦争賠償」と位置づけてくれることは、日本政府にとって「有り難いこと」ではないのか?と思うのである。然るに古森記者は、それが「気に食わない」と言う。

古森記者が言うことに、中国に援助をしインフラ整備を行えば行なうほど、それで浮いた金を「軍事費」に充てるだろうと言うものがある。これには私も、激しく同意する。例え近年の中国の「反日」が、安倍晋三を始めとする日本政府のバカどもに原因があるとしても、現実に軍備増強に「役立って」いるとすれば、ただちに止めるべきであろう。しかも、もう既に中国は日本のGDPを抜いており、国内の貧困問題を、自国で解決する国力はあると思われる。にも拘わらず、そう言ったことを差し置いて、軍備の増強を止めないからだ。かつての高度成長期の日本と同じことを彼らはやっている。

それでもなお中国が、さらなる援助を「要請」してきたら、日本政府はこう言えば良いのである。「今まで中国に対して我が国が行なってきた円借款やODAは、我が国の戦争補償である。日本は貴国家・国民に対し、先の戦争で、耐え難い苦痛をを与え、贖いきれないほどの戦争犯罪を犯してきた。日本の過去における援助の全ては、その贖罪のためだと思って欲しい」と。これで相手はグウの音も出ないはずである。

それでもなお、中国と中国人は多分「納得」しないだろうと、さすがの私も思うが、やらないよりは「段違いににマシ」だと思うのである。何故ならば、そうすれば、日本もやっと、ドイツに負けない「誠実な国」だと、中国から見られる道が開かれるからだ。同様のことは、もうひとつの隣国、韓国にも言えることは言うまでもない。

例えば国連常任理事国になるために、中国から「推薦」が欲しいと思えば、これくらいの「改心」が必須条件だと思う。しかもである。この私のアイデアは、実は日本にとって、極めて簡単なことなのである。何故ならば「役務の給付=経済援助」は、もう荒方「済んでいる」からだ。これは古森のようなネトウヨ記者にとっては「常識」のはずだ。だとするならば、謝罪の文書なり、言葉による「謝罪」なり、そのなるべく目立つ箇所に「過去の累積借款額」でもなんでもいいから、援助して来たことを正々堂々と書き、それが実は全部、過去の戦争の「罪滅ぼしだった」と「宣言」すれば、それでいいのだ。そして現在残っている借款を棒引きにするのだ。簡単なことではないか?

もちろん「罪を認める」ことそれ自体がネトウヨ(および日本国政府)にとっては考えられないことであるからして、これを「やる、やらない」の議論は、どこまで行っても「平行線」「水掛け論」になるはずである。

日本人には独特の文化がある。親のカタキすらも赦す、いわゆる「水に流す」という文化だ。武士道なのかどうか分からない。そもそも明治以降「武士道」が残っていたのかすら疑わしい。が、仮にそれを同じ日本人に求めるのならば、まだ構わないかも知れない(本当は構わなく無いのだが)。しかし、いくら顔つきが同じだからだと言って、全く民族の違う中国人にまで、それを求めるのは筋違いである。言うまでも無い、中国には中国の文化があるからだ。彼らが「謝罪でもない償いでもない施し」を受けるんのは嫌だ、これは先の戦争の「謝罪」として受け取るのなら構わない。と言うのであるから、その通りにしてやればいいだけの話ではないか。

さらに、我々が「水に流す」のよりも、もっと気高い行ないを、過去に我々日本人は中国人の中に見ているはずである。戦時中に親をなくして日本軍に「置き去り」にされた、いわゆる「中国残留孤児」である。中国人の里親は、敵の子供を「敵」とは見做さず、育ててくれたのだ。もちろんそうでない人もいて、日本人だとわかると差別もしたという話も聞く。でも、里親たちはそんなときもかばってくれて、兎にも角にも成人するまで育て上げてくれたのだ。終戦直後のあの時期においても「悪いのは日本人民ではなく、日本帝国主義者だ」として、一人の捕虜も処刑せずに日本に帰したのは、間違いなく中国という国なのだ。

ここまで読めば、賢明な読者の皆さんにはお分かりと思うが、今の中国が真に欲しているのは日本の「謝罪の言葉」なのだ。それをやらずにここまで来たがために、日本のODAが、古森記者の伝によれば「無視」され、あるいは故意に「軽視」され続けてきたのではないのか?それを払拭するためには、何よりも謝罪が必要、それも並大抵の謝罪の言葉ではダメだ、ということなのだ。少なくとも次の演説か、それ以上の内容でなければならない。

<荒れ野の40年>再考
http://takashichan.seesaa.net/article/124518848.html
<「村山談話」と「荒れ野の40年」。
http://takashichan.seesaa.net/article/109003556.html

古森ネトウヨ記者は、こんなことも書いている。

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紫雲県の小さな農村で上水道改善の草の根援助を見学した。

この村は貴州省の省都の貴陽からみても別世界だった。粗末な丸太と板とワラで組み立てた小屋に少数民族のミャオ族とかプイ族という貧しい農民たちが住んでいた。住民の平均年収は四千五百円程度にすぎず、国から貧困地区に指定されている。この村に日本は九百二十万円を贈り、貯水タンクと導水パイプが新設された。以前は不潔な貯水池しかなく、住民は乾期には四キロも離れた水源へと取水に出るほかなかったという。

村では老若男女が総出でタイコやカネをたたいて歓迎してくれた。カラフルな民族衣装の少女たちが笑顔で踊りまわる。日本の援助への感謝が横断幕やポスターに記されていた。中年の男性が自分の小屋の前の水道パイプの蛇口をひねり、水を出してみせる。初老の農婦ははっきりと「日本の援助に感謝します」と述べた。九百万円の援助がこれほど感謝され、二百億円とか三百億円の援助への感謝表明はなし、というのも皮肉である。
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どうであろう?プロローグでは「だれも日本からのODAなど話題にしないのである」と、書いておきながら今度は「老若男女が総出でタイコやカネをたたいて歓迎してくれた。カラフルな民族衣装の少女たちが笑顔で踊りまわる。日本の援助への感謝が横断幕やポスターに記されていた。中年の男性が自分の小屋の前の水道パイプの蛇口をひねり、水を出してみせる。初老の農婦ははっきりと『日本の援助に感謝し』」ているのだそうである(笑)。自分の書いたことと、矛盾しているのではないか?まさに「ネトウヨレベル」の論理性である。

口直しに、日本のODAに関して、客観的に公平な論評をしている極めてマトモな本を、最後にご紹介しておく。
鷲見一夫著:「ODA援助の現実」【岩波新書】http://p.tl/wIRl



posted by takashi at 10:15 | Comment(3) | TrackBack(0) | その他雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「中国との太い絆はODAしかないのですよ」
チャイナスクール出身の外交官(一等書記官クラス)が、対中ODA中止前、こう語ってくれていました。使途を協議する中で、間接的に中国内政にコミットできる唯一のチャンスだったのです。また、中国は毎年数百億円ずつ利子つきで返済しくれています。途上国援助の大事な財源です。損得勘定で、中止はまったく愚行ですね
Posted by アジアのバカ大将 at 2014年02月02日 14:54
無償援助は行われているのではないですか。http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/data/chiiki/china.html
Posted by ツッコミどころ満載 at 2014年02月05日 10:54
ツッコミどころ満載さん、

あなたもう少し私の文章を正確に読んでみては如何ですか?私がどこに「日本は無償援助」していない、などと書きましたか?そのほとんどが「借款」であることは、過去の事実です。世界中から非難されて、無償援助も混ぜるようになったのです。第一私は以前<ODAの正体>というエントリーで、NPOが行なっている、理想的な「無償援助」の例を挙げております。お生憎様でしたね(笑)。

<ODAの正体>
http://takashichan.seesaa.net/article/365098922.html

上総掘りボランティア
http://homepage3.nifty.com/iwp/iwp-towa/iwp.htm
Posted by たかし at 2014年02月05日 15:23
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