2013年05月07日

差別語についての再考察

以前私は、ふたつのエントリーで「差別語」について考察したことがある。

<「馬鹿」という言葉>
http://takashichan.seesaa.net/article/128631992.html
<差別語について>
http://takashichan.seesaa.net/article/149675560.html

「馬鹿」という言葉が、放送コードにおける「放送禁止用語」(尤も放送業界の自主規制であって、法的根拠はない)から除外されている理由として、私は「現在に於いては、知的障害者を指して『馬鹿』と呼ぶような人間はほとんどいないということ。全くいないわけではないだろうが、ごく少数であること、更に『差別用語』としてこの言葉を使用する人間は、逆にその人格を疑われる、といった社会的『常識』が確立されているから」と、説明したことがある。明治・江戸期までは、明らかにこの言葉は「知的障害者」を指して用いることが多かったのは事実だ(落語「道具屋」「孝行糖」)。

ちなみに「知的障害者」ではなく、ごく一般的な「馬鹿」を呼ぶ場合に、本多勝一氏は「本質的な馬鹿」という言い方を用いている。例えば、自分から進んで自民党や維新に投票して、己の首を絞めるたぐいの「馬鹿」がこれにあたる。自分の子供にどのような「奇形」が出るかもわからない放射能をばら撒く原子力発電所を推進する自民党の、元首相の小泉純一郎の息子が、地元にやってきて「握手」をしてくれたと言っては、それだけでキャーキャー騒ぎ投票する、それも選りに選って福島の原発被害地に住む主婦たち、などがこの「本質的な馬鹿」にあたる。もちろん、小泉進一郎自身もこれにあたる。

「キチガイ」も現在「放送禁止用語」になっているが、これももう外して良いのではないか?精神疾患者についてこれを用いる人は、現代に於いては稀であろうと思われる。これもまた「本質的なキチガイ」に用いられるのがほとんどだからだ。例えば、池田大作の前で「トランス状態」になる久本雅美などが、明らかに「本質的なキチガイ」である。

その他の「放送禁止用語」身体的特徴や障害、病気、職業、出自、国籍等に関わるものも、基本的に放送事業者が「自主規制」することには、私は反対である。ニュースや報道番組は構わないと思うが、映画、ドラマの類ではそれが重要な主題であることも多いからだ。NHKが「座頭市」を絶対に放送しない(出来ない)のもそのためなのだ。

私も「たかしズム」においては、必要と有らば差別用語は、ためらわずに使っている(ただしもちろん「」付きで)。結局「差別語」については、以前私が<差別語について>の最後に書いたことに尽きるのではないかと思っている。

「『差別語』を取り巻く現状は複雑であるが、私は要は『相手が傷つくような用い方はしない』ということではないかと考えている。『シナ』と呼ばれて中国人が傷つくのならば使わない、ただそれだけのことだ。ああ言えばこう言うで『うちの近所では昔から支那そばと言っている』とか『東シナ海と言うじゃないか?』・・・などという輩(=ネトウヨ)がよくいるが、そんなのはただの『屁理屈』に過ぎない。」

posted by takashi at 11:25 | Comment(5) | TrackBack(0) | その他雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
傷つくかつかないかが…

傷つくかどうかは想像する事はできるけど、ほんとうのところは本人ぢゃぁないとわからないと思います。
Posted by 反体制 at 2013年05月07日 13:06
 差別語については、相手が傷つかないといったことではなくて、使う人と使われる人に社会的な階級差が存在することを、使う側の主観において認識されることが問題なのではないかと思っています。

 たまたま、目が不自由に生まれてこようが、足が悪く生まれてこようが、それはその人の個性に過ぎず、その人の人間性を貶める理由にもならなければ、社会的にその人が下位でなければならない根拠にもなりません。

 しかし差別語とされる言葉を使ってそういう人のことを言う場合には、目が見えている自分よりも、存分に歩くことができる自分よりも、劣った存在であり、社会的にも下位の存在であるといった認識が、使う側には存在しています。

 めくらのくせに生意気だとは言っても、健常者のくせに生意気だとは言いません、障碍を持った人間は劣っているのだから、どんな場合でも健常者に対してへりくだって生きていくべきだ、といった価値観が存在していて、それを際立たせて、使われる側に劣っていることを再認識させる意味合いが差別語にはあると思います。

 在特会はネトウヨは、ここは日本であり、俺たちは日本人なのだから、どのような場合にも人を差別する権利があるという考え方に立っています。

 外国人、被差別部落出身者、障害者は自分たちよりも卑しいのであるから差別されて当たり前なのだ、俺たち日本人の愛国者よりも劣位にあることを認識させるために、より甚だしい露悪的な表現で差別語を使って、双方の社会的地位の差を教えてやらねばならないのだ、といった観点で、在特会やネトウヨは差別語を乱用していると思います。

 川東大了氏が水平社博物館の前でやった差別語の連発は、自分たちの側に差別する権利がある事を相手に思い知らせるためにやっているとしか思えないものでしたが、これは彼らの持つ価値観からすれば当然の行為でもあり、自分たちが持つ差別する権利を否定する今の社会が間違っていて、間違っている社会に対して自分は警鐘を鳴らしているのだ、といった話になるはずです。

 差別語の場合には、使う人と使われる人の間には、絶対的な社会階層の違いがあり、社会的地位の相違があるのだ、と使っている側が主観的に思いこむのが可能であることに問題があるのではないかと思います。
Posted by たかひろ at 2013年05月07日 13:42
反体制さん、

基本的に、あなたのようなコメントには答える術がないし、その必要もないと感じておりますので、普通ならばお答えはいたしません。今日は特別にお答えしますよ。

だから何なの?
Posted by たかし at 2013年05月07日 14:01
たかひろさん、

>差別語の場合には、使う人と使われる人の間には、絶対的な社会階層の違いがあり、社会的地位の相違があるのだ、と使っている側が主観的に思いこむのが可能であることに問題があるのではないかと思います。

社会階層、社会的地位というのは必ずしも当てはまらないと思いますね。例えば幽玄佐東のような人間の屑が、社会階級も社会的地位も、格段に上の「はず」の孫正義氏に差別的言辞を吐くというようなこともあるわけで。

だから社会階層、社会的地位という動機よりも、やはり民族的なマジョリティが、ネトウヨの場合の動機になっていると思いますね。同様に障害者の対しては「身体的マジョリティ」被差別部落に対しては「出自マジョリティ」というのが、ネトウヨの差別意識の根源ではないかと思うわけです。
Posted by たかし at 2013年05月07日 14:09
ついでに、今ちょっと思い出したのですが「在特会」のデモの先頭に、車椅子に乗った人物がいるんですね。他の会員に車椅子を押してもらって一生懸命「旭日旗」を振っている。

本来彼はネトウヨには差別される「はず」の側の人間です。その彼が、世の中の「現実」を見ずに、自分の唯一誇れる(と思い込んでいる)「属性」すなわち「日本人」という属性に、ステータスを見出して、それにすがりつく、という姿は、見ていてものすごく憐れだな、と思いました。

「在特会」側としても「どうだ、在特会はこの通り身体障害者には親切なんだぞ」というような「宣伝効果」を狙っているのでしょう。利用されているのかも知れません。でも彼らが、同じ車椅子の「一般人」には暴力を振るう動画が、YouTubeにきっちり残っていますから、そんなふうに取り繕うのはどう考えても無理でしょう。
Posted by たかし at 2013年05月07日 15:10
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