ビクトル・ハラと小林多喜二。この二人の革命的芸術家は、どちらも拷問により指を砕かれている。ビクトル・ハラはギターが弾けないように。小林はペンが持てぬように、と。そしてその直後に二人とも惨殺されている。
10年ほど前、小樽の文学館へ行った。ここは旧北海道拓殖銀行本店の建物であり、まさに小林多喜二の職場であった場所だ。展示資料は伊藤整、石川啄木、小林多喜二の三人のものである。展示物の量的比率で行くと7対2対1という感じであろうか。小林多喜二は断然少ない。しかし、帰り際に見た来館者ノートの書き込みは99パーセントが多喜二についてだった。当時も若い人たちの書き込みが多かったと記憶している。そのとき私は思ったものだ。この文学館に来る人々はほとんどが多喜二に会いに来るのだな、と。
1933年に、小説「蟹工船」が元で小林多喜二は特高警察に逮捕された。直接の罪状は「不敬罪」。小説の中で労働者に言わせた「石っころでも入れておけ」というセリフ。つまり皇室への「献上品の缶詰」に石ころを入れろとは何事か、というわけだ。しかしこれは明らかに「別件」であろう。権力がこの小説の中で激怒した部分は「石ころ」などでは無い。彼らは「蟹工船」のなかで多喜二が「帝国軍隊」の本質を「暴いた」ことに驚き慌てたのだ。国家の「暴力装置」として民衆を弾圧する軍隊の本質。権力が隠したい部分を、まさに象徴的に描ききったこの小説に危機感を抱いたのである。労働者たちが、職制の暴力から自分たちを解放するために船に乗り込んできたとばかり思っていた軍隊が、銃口を向けている先は何と自分たちであった。この衝撃シーンがそのクライマックスである。
近年所謂ワーキングプア層の間で「蟹工船」が読まれているのは喜ばしいことだと思う。その共感はしかし、主に労働者の「悲惨な働かされ方」に限定されているように思う。この小説の主題はひとつではない。例えば上に書いた軍隊(国家権力)の本質の暴露、労働者の団結(組織化)の問題もそれに含まれる。もっと多角的な読み方がされることを期待したい。
手塚英孝著「小林多喜二」上下巻、この本を何度手に取ったことだろう。その度ごとに私は新たな感動に包まれたものだ。不屈な革命的芸術家に対する尊敬のこころと、同志としての愛情に満ちた文章、綿密な考証で解説されたその生い立ち、そして「死」。小林多喜二の伝記としてはまさに圧巻、これ以上の評論は過去にもないし今後もないだろう。作品そのものに関する評論は不破哲三をはじめ多くが著しているが、同時代に同じ使命のもとに活動した経験を書いているところに手塚の本の強みがある。
その手塚であるが、多喜二との交友期間はそれほど長いわけではない。多喜二が上京したのが1930年3月、多喜二27歳のときである。彼はプロレタリア作家同盟の活動家として活動を始め、翌年共産党に入党する。それから彼が非合法生活に入るまでの間はまさに、検束、投獄、拷問の繰り返しであった。豊多摩刑務所から出獄のあと書いた「独房」では出廷の護送車の中から見た風景を描写している。
「N町から中野へ出ると、あのノロい西武電車がいつの間にか複線になって、一旦雨が降ると、こねくり返る道がすっかりアスファルトに変わっていた。」
1932年、多喜二が実生活で関った「藤倉工業」は、後の作品「党生活者」の「倉田工業」のモデルであるが、この会社の臨時工労働者の実態はまさに現在のワーキングプアと同じであった。
・皆入社する時に、「3月までしか使わぬ」という契約書に判を押して、承諾させられており
・4月になればまた沢山の仕事が来ることがわかっているのに、散々コキ使ってクビにされ
・一方本工からは「生意気だ、でしゃばりだ」と言われ、本工との結びつきは困難であり
・こんな条件で「首切り反対だ」、「臨時工を本稿になおせ」という要求のもとにたたかうのはかなり困難
という状況だった。どうだろう?現代の「非正規雇用社員」と、どこが違うだろう?
その後多喜二は地下生活に入る。多喜二自身「個人的生活が同時に階級的生活であるような生活」と呼んだ生活にである。この地下生活を題材に書かれた「党生活者」を読み、そこに書かれた所謂ハウスキーパーと主人公との確執をめぐって「わが意を得たり、これぞ共産主義における女性の哀れな姿さ」とばかりに非難を集中する人もいる。例によって新左翼出身の私の友人も、飲むたびにこれを持ち出したりする。しかし考えてもみて欲しい、あの弾圧下での党活動がどのようなものであったかを。まさに「ブルジョア的」な恋愛など奪われた極限状況なのである。批判の多くがこの手のブルジョア人道主義的発想であることは仕方のないことかもしれないが。
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十番の賑やかな通りから細い路地をはいった奥まったところに、古ぼけた軒のひくい鰻屋があった。湿っぽいでこぼこの土間をぬけてあがると、田舎の納戸のような天井のひくい部屋があった。はじめは月に二度、金がなくなるにつれて、月に一度、二月に一度という具合になってしまったが、私たちはここで鰻を食って休養することにきめていた。下宿にいても、歩いているときも、気をくばって、休息というものがないような緊張した生活のなかにいたから、こうしたひとときは、ことばではいいつくせない楽しさがあった。
小林は、この家がそば屋にそっくりだといって大喜びだった。眼鏡をはずし、大の字に寝ころんで、背のびをしたり、大きな声で笑ったり、子供のように目を輝かし、こころからうれしそうだった。
「小樽にそっくりだよ」
と、仰向けに寝ころんだまま、彼はなつかしそうに渋紙をはった壁や、そそけたひくい天井を眺めながらいく度もくりかえした。
こうして寝ころんでいると、なつかしい記憶や、いろんな思い出が、つぎつぎと浮かんでくるものとみえ、大きな声で笑っているかと思うと、髪をみだし、足をまげて、ぼんやりと思いにふけっていた。それからまた、静かにからだをおこして楽しそうに話しかけた。こんなとき、彼はときどき、お母さんのことや、幼いころの思い出を話して聞かせるのであった。(手塚英孝「小林多喜二」下巻「回想」より)
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手塚英孝の「小林多喜二」下巻の最後の章「回想」の中の一節である。特高警察に追われる緊張の中に、しばし訪れた時間における小林多喜二の描写だ。同志小林への深い愛情が感じられる私の一番好きな箇所である。
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それからある日のこと、「君はどうだ、小説を書く気はないか」と、とつぜん私にきいた。私は少してれてしまって、返事にまごつきながら、「四十ごろから書きはじめようか」と笑いながら答えた。すると彼は妙な顔をして笑った。そのつぎにまた同じ場所で会ったとき、彼はまた同じことを私にたずねた。私は同じような返事をした。すると彼は、また妙な顔をして笑った。
四、五日後、同じ場所でいそぎの用件のために会い、相談ごとがすんだあと「君はどうだ、小説を書く気はないか?」と、また、彼はひくい声でささやいた。それには何かしんみりとしたものがあったので、私は例のように「四十から」といいかけたが、少しいぶかりながら彼のほうをみた。彼は「また、そういう」と、かすかな声でいって、長椅子のクッションにまるく体をちぢめてよりかかりながら、淋しそうな充血した妙な顔をした。それはまるで、コチンとしてまるまった顔の大きな老人のようにみえたが、彼の目はするどくかがやいていて、何か、遠くの方を一心に追っているかのようにみえた。私はようやくはじめて彼の気持ちがいくらかわかるような気がした。(手塚英孝「小林多喜二」下巻「回想」より)
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「この生活では長編はなかなかむつかしい。」と言う多喜二。「私は彼の日常生活をかなりくわしく知っていただけに、いつの間に小説を書くのだろう、とむしろ不思議に思ったほどである。」と手塚。
「個人的生活が同時に階級的生活であるような生活」をいとわぬ小説家がいないことが歯がゆかったのだろうか?いや、当時の状況の中でおそらく多喜二は自分の命がそう長くないと覚悟していたのだろう。だから彼は自分と同じ思想の作家が一人でも増えて作品を残すことを望んでいたのではないか?手塚に対する「君はどうだ、小説を書く気はないか?」の問いかけにはそんな意味が込められていたのではないかと思う。
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真冬の冷たい檻房に暮色がようやく迫ろうとし、五つの房にすしづめとなった留置人たちは、空腹と無聊と憂鬱とでひっそり静まり、ただ夕食の時刻が来るのを心待ちにしていていた。
突然、私の坐っている檻房の真正面にあたる留置場の出入口が異様なものものしさでひらかれた。そして特高―紳士気取りの主任の水谷、ゴリラのような芦田、それに小沢やその他―が二人の同志を運びこんできた。
真先に背広服の同志がうめきながら一人の特高に背負われて、一番奥の第一房に運ばれた。
つぎの同志は、二三人の特高に手どり足どり担がれて、私のいる第三房へまるでたたきつけるようにして投げこまれた。一坪半ばかりの檻房は十二、三の同房者で満員だった。その真中にたたきこまれて倒れたまま、はげしい息づかいと呻きで身もだえするこの同志は、もはや起きあがることすらできなかった。
「ひどいヤキだ……」同房人たちは驚いた。
私は彼の頭を膝に乗せた。青白いやせた顔、その顔は苦痛にゆがみ、髪のやわらかい頭はしばしば私の膝からすべり落ちた。「苦しい、ああ苦しい……息ができない……」彼は呻きながら、身もだえするのであった。「しっかりせい、がんばれ」と、はげますと、「うん……うん……」とうなずく。その同志は紺がすりの着物に羽織という服装であった。顔や手の白さが対照的にとくに印象ふかい。整った容貌は高い知性をあらわし、秀でた鼻の穴に真紅な血が固っていた。手指は細くしなやかで、指のペンダコは文章の人であることを物語った。同房人たちも胸をひろげてやったり、手を握ったり、どうにかしてこの苦痛を和らげねばならないと骨折った。
一体、この同志は何の組織に属する何という人だろう、私は知りたく思った。「あなたの名前は?」と、私は尋ねたが、それには答えず、間欠的に襲いかかってくる身体の底からの苦痛にたえかねて、「ああ、苦しい」と、もだえるのであった。
たった今まで、この署の二階の特高室の隣りの拷問部屋で、どんなに残虐な暴行が行われたか、そして、二人の同志がいかに立派にたえてきたかを、この同志の苦しみが証明した。
やがて、「便所に行きたい」というので、同房人が二人がかりでそっと背負って行った。便所へついたと思う間もなく、腹からしぼり出すような叫び声が起こった。やがて連れ戻ってくると、「とても、しゃがまれません。駄目です」と、同房人が言った。
私は先ほどから、そわそわして様子を見ている看守に言った。「駄目だ、こんな所では、保護室へ移さなければ」私たちの房の反対側に保護室があった。そこは広く、畳が強いてあり、普通、女だけを入れたが、大ていあいていた。看守はうなずいて、私たちは同志を移転させ、毛布を敷き、枕をあてがった。そして、彼の着物をまくって見た。「あっ」と私は叫んだ。のぞきこんだ看守も「おう……」と、呻いた。
私たちが見たものは「人の身体」ではなかった。膝頭から上は、内股といわず太腿と言わず、一分のすき間もなく一面に青黒く塗りつぶしたように変色しているではないか。どういうわけか、寒い時であるのに股引も猿又もはいていない。さらに調べると、尻から下腹にかけてこの陰惨な青黒色におおわれているではないか。
「冷やしたらよいかもしれぬ」と、私は看守に言った。雑役がバケツとタオルを運んだ。私たちはぬれたタオルでこの「青黒い場所」を冷やしはじめた。やがて、疲れはてたのか、少しは楽になったのか、呻きも苦痛の訴えもなくなった。同志は眼を閉じて眠る様子であった。留置場に燈がついて、夕食が運ばれた。私はひとりで彼の枕辺に坐って弁当を食い終った。そして、ふたたび彼の顔をのぞいたとき、容態は急変していた。半眼をひらいた眼はうわずって、そして、シャックリが……。私は大声でどなった。看守はあわてて飛び出して行った。
やがて、特高の連中がどやどやとやってきた。私は元の房へつれもどされた。保護室の前へ衝立が立てられた。まもなく医者と看護婦がきた。注射をしたらしかった。まもなく、担架が運びこまれた。
同志をのせた担架がまさに留置場を出ようとするときであった。奥の第一房から悲痛な、引きさくような涙まじりの声が叫んだ。
「コーバーヤーシー……」
そして、はげしいすすり泣きがおこった。
午後七時頃であった。
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以上は築地署で多喜二と同房にいた、岩郷義雄の回想による多喜二の最期の描写である。多喜二が殺される四、五日前、手塚は彼と会っている。小雨の降る寒い日であった。連絡の合間に寄った小さな喫茶店での多喜二が、手塚の見た最後の多喜二だった。
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客のないガランとしたストーブのかたわらを、彼は両手をポケットにつっこんだまま、ゆっくり行ったり、きたりしながら、ふかい瞑想にふけっていた。口のまわりにふかい皺をよせて、自信にみちた重おもしい決意が、全身にあふれてみえた。
(中略)
私はこのきびしいたたかいの生活をつうじて、たくましい一人の人間を驚嘆しながらひそかに注目していた。どのような困難にもひるまず、真実にたいするひたむきな献身的な努力で、ふかく、ゆたかに成長していくすばらしい人間の姿を、私はありありと、眼前に見るように思うのであった。
外はいつのまにか大雪になっていた。シンシンとふりそそぐ雪の音が聞こえるような静かな宵だった。珍しく大粒の牡丹雪が、街の明かりに浮き出されて、中空一面にちりばめた美しい模様をつくってあらわれたり、とつぜん、激しい大きな渦巻きになって流れたりした。(手塚英孝「小林多喜二」下巻「回想」より)
多喜二は共産主義者だ、自分たちが権力奪取に成功すれば膨大な数の日本人を殺害して、この国を朝鮮人の支配下に置こうとしていたはずだから、特高が多喜二を殺害したのは、日本人の生命財産を守る上で正当な行為であった。
要約すればこんな内容でした。
このような事を平然と書いているネトウヨが、公安警察の関係者とか、大資本家や大地主であるかといえばそうではなく、臨時工労働者と同じような立場にあるワーキングプアのような立場だと思います。
自分がワーキングプアだから多喜二の考え方に共鳴するのではなく、反共の立場から多喜二を断罪し、特高による虐殺を正当化すれば、社会の底辺層であるという自身の現実を越えて、日本と言う国家と一体になる事が出来、国家の代弁者として他の者たちを見下ろしてものが言える、いい気分で威張ることができる、そのような状況が今の世の中には間違いなく存在していると思います。
私としては、多喜二を殺した特高が正しいとするネトウヨの議論には驚きましたが、安倍政権が出来て以後の日本社会では、それが驚きを持って迎えられる議論ではなくて、国家の側に立つ人間であれば当然の議論になってしまっているのではないだろうか、そんな気がしてなりません。