これらは「感嘆符」「疑問符」と言うのですよね?英語あるいはその他のヨーロッパ言語から借用されたものだと思います。私自身は、結構便利なので使っております。
これらの記号を嫌う人の主張にも頷けます。確かに日本語は「疑問形」の語尾が「〜か」となるため、本来は「疑問符」は必要ありません。しかし、口語は日夜「進化」しています。例えば「肯定形」で疑問を表す表現が、現在では存在していることにお気づきにならないでしょうか?「いいと思います?」という言い方ですね。「いいと思います。」では、文章(書き言葉)上は完全に「肯定」になってしまいますね。
また「はあ。」「はあ?」という二つの言葉のニュアンスの「違い」は、書き言葉ではどうやっても出せないですね「?」が無くては。言うまでもなく、前者は「肯定」後者は「疑問」です。
こういった表現は、かなり昔から「疑問」「肯定」両方に使われていたはずです。文学作品では、どのように表現していたのでしょうね?確かに大昔の日本語には無かったものでしょう。しかし「生き物」である日本語の書き言葉は、文語体から口語体に変わって行きました。私自身は、言葉(話し言葉も書き言葉も)は、常に変化(進化)するものだと思っております。そういった、言葉の変化を肯定的に捉えた主張を、これまでも色んなエントリーで、繰り広げてきたような気がします。以下は私が日本語について書いたエントリーのうちの幾つかです。
<「馬鹿」という言葉>
http://takashichan.seesaa.net/article/128631992.html
<英語のカタカナ表記について>
http://takashichan.seesaa.net/article/141828268.html
<「新語」について>
http://takashichan.seesaa.net/article/149630441.html
<差別語について>
http://takashichan.seesaa.net/article/149675560.html
<方言における「品詞」の交錯ついて>
http://takashichan.seesaa.net/article/149861950.html
<ネトウヨさんにお薦めの「Google日本語入力」のおせっかい機能>
http://takashichan.seesaa.net/article/294798664.html
<続・ネトウヨさんにお薦めの「Google日本語入力」のおせっかい機能>
http://takashichan.seesaa.net/article/296424678.html
さらにインターネット時代を迎えて、日本語の「書き言葉」は、更に変貌を遂げ、遂には「顔文字」なるものも登場いたしました。
結論から言いますと、的はずれでない限り、意味のない使い方でない限り、過剰でない限り「!」も「?」も、使って構わないのではないでしょうか?ことに「?」の場合、ひと目でそれが「疑問文」であることが確認できます。「!」の場合は、書き手が「興奮している」「怒っている」「その主張を特に強調したい」などの「精神状態」を表すことが可能です。それの「行き着いた先」が、いわゆる「顔文字」なのではないでしょうか?
実を言うと、私は「顔文字」も嫌いではありません。ブログにユーモアを与える手段になるからです。もちろん「学術論文」に「顔文字」を使う人はいないでしょう(笑)。そう、この「(笑)」もそうですね。「おかしい」という気持ちと同時に「余裕」を表現出来ますね。ネトウヨさんもよく「www」などというのを使いますが、どうもこれは「顔がひきつっている」ような印象を覚えるのは、この私だけでしょうか?
文章を読んで、登場人物が吃驚したと受け取るのも、疑問に感じているだろうなと受け止めるのも、読み手の自由だと私は思っています。
寄席へ行けば、笑うのも拍手するのも客の自由ですが、テレビの公海録画ではアシスタントディレクターの指図で拍手や笑いが強要されます。
文章の中へ?や!を入れることは、読み手に対して、書き手が過剰な指示を与えているように思えるのです。
それで自分の書くものには?や!を使わないでいたら、出版社の編集者から、読み手に内容が分かり辛いから、疑問や驚きを強調する時には入れてくれと言われました。
テレビの公海録画の客がアシスタントディレクターの指示で拍手したり笑ったりするように、今の読者は書き手が使う?や!で書かてれている内容を理解するようになってきているようです。
?や!で、読み手に認識を強要されることに読み手が慣れてしまって、それがないと文章から情景が想像できないという状態は、言葉の衰弱に繋がっていくように私には思えるのですが、どんなものでしょうか。
公開録画 正
>?や!で、読み手に認識を強要されることに読み手が慣れてしまって、それがないと文章から情景が想像できないという状態は、言葉の衰弱に繋がっていくように私には思えるのですが、どんなものでしょうか。
私の尊敬してやまない本多勝一氏も、私ほどではないにしても「!」「?」を使用しています。私は「要はわかり易ければ良い」という考えです。たかひろさんとは違って、これも「日本語の活性化」のひとつと捉えています。しかし、自分は絶対に使わない、と決めている方に、無理にお薦めはしていません。各自文章のスタイルというものがあるでしょうから。
これは、現在進行している日本語の「変化」を「進化」と捉えるか、「退化」「劣化」と捉えるか、という問題だと思います。
確かに、「はぁ」が疑問なのか、同意を意味するものなのかは、(それ単独では)分かり難いでしょう。
それ故に、前後の文脈によって、「意」を伝達するための「表現上の工夫」が要求されます。
この「表現上の工夫」こそが、言語をより上質なものへと鍛え上げてきたのではないでしょうか。
詩文では比喩や間接的表現を用いる事によって、読み手の想像力を換気させます。
伝達手段としては、謂わば「回り道」をすることで成立するのです。
「あなたは好きです(ハートマーク)」
「あなたが大好きです!!」
これらでは、端的に意思は伝達できるものの、詩にはなりません。
「回り道」をする事で、言語は豊かで複雑な進化を遂げてきたのです。
言語の持つ役割は、第一に「意思を伝達する手段」ではありますが、それだけに留まらず、「文化の礎を形成するもの」という側面もあるのです。
「?」「!」、或は、顔文字、絵文字の使用は、日本語を、日本の文化を果たして豊かにするものなのでしょうか。
「?」「!」、顔文字、絵文字といった記号は、便利なものです。
斯く言う私も、メールのやり取りなどではこれらを使用する事はあります。
手っ取り早く意図は伝えたい時には、有用だと思います。
しかし、それはある程度の「私的な関係性」が成立した間柄であるからです。
これらの記号を全く使用すべきではない、とは思いませんが、「限定的」ではあるべき、と私は考えます。
「私」も「公」も味噌糞に、(便利だからといって)これらを乱用する事は、言語の退化、劣化を導く要因となる危険性がある、とは言えないでしょうか。
様々な文明の利器が、その利便性と引き換えに人間の持つ能力の部分的退化を産んだ様に。
ネトウヨの「崩壊日本語」に触れるにつけ、その危惧は一層強まって行くのです。
やすさんやたかひろさんのおっしゃることに、私は「異議」を唱えるつもりはありませんので、そのへんはご理解をいただきたいと思います。私が「言葉」というツールの中で、何が重要かと考えているかと言えば、それは「分かり易さ」だということです。
「分り易い文章=論理的な文章」
「論理的な文章=分り易い文章」
これには例外がありません。一対一で対応しています。「論理的だが分かりにくい文章」というのはあり得ません。「非論理的だから分かりにくい」のです。エントリーでご紹介するのを忘れましたが、文章について私が書いたエントリーでは、これが一番私の言いたいことかもしれません。
<「悪文」について>
http://takashichan.seesaa.net/article/146877417.html
あと「退化」と「進化」の議論は、あまり意味ないと思います。「退化」も「進化」のひとつですからね。例えば「ら抜き言葉」というのがあります。つまり「受け身」「可能」両方共、本来ならば「られる」なのが近年、後者をいわゆる「ら抜き」とするようになって来ました。例えば「見られる(受け身)」「見れる(可能)」というように。これなどは、当初かなり「議論」の的になったものですが、現在ではほぼ「市民権」を得たといえるでしょう。
また「読み」「送り仮名」についても、日本語は、何百年間にわたって変化して来ました。「ゐ」「ゑ」なども、本来は「発音」からして違っていたものが、いつしか「統一」されました。ですから、私は近い将来「つずく」「もとずく」「こずかい」「わかりずらい」が、正式な日本語となる日は、そう遠くないと思います。その「推進力」となっているのは、ネトウヨを始めとする「無学」な連中であることは確かですが、それはしかたのないことでしょう。日本語はいわばそのように「進化」して、現在に至っているわけですから。
<ちょっとコーヒーブレイクを>
http://takashichan.seesaa.net/article/135041614.html
「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで、・・・悠久の太平を開かんと欲す」、なんて文章は分かり辛いことこの上無く、最低の悪文です。これを聞いて戦争に負けたと言ったら、これはもっと頑張って勝つまで戦おうという意味だ、この非国民がと言われて殴られた、なんて話がたくさん残っていますが、意図を間違いなく伝えるという最低限のことさえやれていないのです。
どうしてこうなったのかと言えば、分かり易く、「戦争に負けました、責任は全部朕にあります」とは責任逃れで言いたくないから、ひたすら分かり辛い表現で逃げているわけです。
国会での役人が作った答弁書でも同じで、責任逃れに終始しているから、意味不明の分からない悪文となっているといえます。
理論的な文章=分かり易い文章、というのはその通りだと思います。責任逃れで理論をどこかで誤魔化そうとするから分かり辛い文章になる、ということではないかと思います。
悪文は論外ですが、分かり易さ以外に文に格調のようなものを加えられたらもっと良いのではといつも考えています。文に格調を求めた場合には、?や!、ら抜きは果たしてどうなのかとは思っています。
>分かり易さ以外に文に格調のようなものを加えられたらもっと良いのではと
そうですね。ただし、それも「時と場合」だと、私は考えております。どういう意味かは、お察しいただけると思いますが(笑)。「変幻自在」というのもあっていいではありませんか。