まず皆さん、小選挙区制度が生まれた背景を思い出してみて欲しい。1990年代の初頭まで、日本は中選挙区制であった。それまでは、いわゆる55年体制で、自民党、社会党という「比較的対立した」二大政党のほか、共産党も一定の勢力を持ち、更に「中道」を自称する民社党、公明党などが相当数の議席を持っていた。
内容はともあれ「中選挙区制」のお陰で、多様な政党が存在したことは確かである。そんな中で、チェック機能が働いたため、当時は「あくどい法案」は、なかなか通らなかった。予算の決定も、現在よりは遥かに審議の時間を要したものだった。そしてそれらを、我々国民も「民主主義の必要経費」として甘受する度量を、まだしも持っていた。戦争の犠牲の代償としてやっと手に入れた民主主義を、少なくとも現在よりは理解していたと思う。
当時、自民党の政治は腐敗しきっていた。ありとあらゆる汚職(リクルート事件など)や、選挙違反が、当然のようにまかり通っていた。それに対する国民の反発が原因で、1993年には「非自民」の細川連立内閣が成立した。そしてこの政権が「くせ者」だった。この「悪魔の落とし子」政権は「選挙に金が掛かり過ぎるのが良くない」とし「選挙に金が掛かり過ぎるのは中選挙区制度のせいだ」とした。今思えば、これが「地獄の一丁目」であった。「小選挙区制度」法案が「非自民」の細川内閣で成立したということは、今思えばなんたる「皮肉」であろうか。
そこで疑問が湧いてくるのである。この政権は果たして、知っていてこの「毒まんじゅう」に手を出したのか?それとも本当に知らなかったのか?後者ならば、誠に愚かとしか言いようがない。案の定「政治腐敗」「金のかかる選挙」は、小選挙区後も相変わらずだったし、それどころかこともあろうに「政党助成金」などという「合法的な政治腐敗」制度までが、それと「引き換え」にちゃっかり作られる、という「オチ」まで付いた。
さらに、この選挙制度はそののち2001年、自民党政権の中でも戦後最悪の「小泉政権」を生み出すという「致命傷」を日本にもたらす。そして遂には、今回(2012年暮)「トドメ」とも言うべき「歴史的政権」を生み出すこととなったのである。さて、その「小選挙区制度」についてだが。
皆さんは「ラチェットレンチ」という工具をご存知だろうか?「ラチェットレンチ」とは「ラチェットギア」を用いたレンチのことを言う。ラチェットとは「動作方向を一方に制限するために用いられる機構」(ウィキペディア)である。すなわちラチェットギアとは、小刻みに締め付けるための仕掛けであって「元には戻せない」のが、大きな特徴とされる。
あまり知られてはいないことだが、このラチェット「機構」が歴史上最初に用いられたのは、中世の「拷問器具」においてである。詳しくは述べないが、皮肉にもこの「機構」が現在の日本において、我々の気づかないところで我々を締め付けている、ということを念頭に置いて以下を読んでほしい。
さて、このようにして、最低限「民意」を反映することが可能であった「中選挙区制」をあっさりと捨て去って「小選挙区制」を選んだ「我々」であるが、その結果どういうことが起こったか?
なるほど2009年には待望の「政権交代」なるものが「実現」した。しかしそれは、我々が「期待」していた「政権交代」となり得たか?
法政大学の五十嵐仁教授によると、小選挙区制の「弊害」は次のようなものだという。
http://igajin.blog.so-net.ne.jp/2009-09-05
@有権者の選択と議席に大きなズレが出る
A民意の逆転が起きる
B議席にむすびつかない票=「死票」がゴマンと出る
C小さな政党は排除される
D政党阻止条項(得票における「しきい値」)の発生
E政党と議員の固定化が進む
F投票率が低下する
五十嵐氏の7つの「弊害」に、さらに私は「政党の画一化」を付け加えたいと思う。要するに、民主党が政権を取った三年間に起こったことである。つまり、この間民主党は、国民の期待をすべて裏切って「右傾化」し(自らのマニュフェストをことごとく破り捨てて)、自民党と何ら変わらぬ政党になってしまった。それどころか、最後には自民党と「悪政を競う」ような政党に成り下がってしまった。それもこれも小選挙区制により「チェック機能」そのものが働かなくなったせいである。
さて、小選挙区制を改めるためには、国政選挙において「小選挙区制に反対する候補者」を選ばなければならない。ところがその候補者を選ぶ選挙は、小選挙区制によって行なわれるのだ。現在多数を占めている政党は「小選挙区制で甘い汁を吸っている政党」である。その政党が小選挙区制に「反対する」道理など無い。したがって「自分にとって不利な選挙制度」への改革法案などに賛成するわけはないのだ。なんという理不尽であろうか。「自浄作用」は「あらかじめ封印」されているのだ。
民主主義は、その内部に「民主主義の破壊者」を内包している、と言われる。日本国憲法が良い例ではないだろうか?憲法を変えるために必要な条項(第96条)があるが、これは作るべきではなかったのではないか?また、民主主義を大きく歪める「小選挙区制」という制度も、同様に「民主主義」の下で作られるのである。そして一旦作られたが最後、それは「ラチェットレンチ」で締められたように、決して元には戻せないのだ。かくして「悪政のスパイラル」は、永遠に続くこととなる。
関連エントリー
<「議員定数」の罠>
http://takashichan.seesaa.net/article/120440203.html
<さらに選挙制度について>
http://takashichan.seesaa.net/article/127034503.html
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お久しぶりです。
選挙制度は専門分野でもあるので、僕も少し意見を。
小選挙区制や中選挙区制が採用されるようになった背景には、ナチス政権を間接的にであれ誕生させてしまった、「純粋比例代表制」にたいする苦い思い出があるのだと言われています。
当時のワイマールドイツは上記の「純粋比例代表制」を取っていました。
その結果、極少数の政党が乱立し、5つも6つも党が連立しなければ、法案の可決すらままならなくなり、景気の悪化で国民が極貧にあえぐも何もできず、「何もできない国家」への批判が高まります。
結果、「安定かつ迅速な政権運営ができる」、独裁的政治運営を望む国民に、ヒトラーの個人的能力その他さまざまな要因が絡み、ナチス政権が出来上がってしまいました。
…とまあ、小選挙区制の「多くの死票」は、こうして正当化されてしまうわけですが、僕の意見を言うなら、端的に「ナチスドイツ誕生の直接的原因は比例代表制ではない」と言う事ですね。
実際、ドイツは純粋比例代表に近い、即ち得票率と議席数がほとんど等しくなる「併用制」を取っているのですが、ナチスが誕生しそうになるわけでもありません。
今回の「勝ちすぎ」結果を見てもそうです。小選挙区での全体得票率27(26?)パーセントの政党が、どんどん法律を制定してしまうのは、「安定政権の要請」と言う理由なんかじゃ弱すぎます。
本来は憲法改正の発議を阻止すらできない得票率(33%以下の27%)で、憲法改正発議をできてしまう議席を獲得する(小選挙区では66%以上の79%)。これは大きすぎる問題です。
そのためにも次回の選挙では絶対に左右問わずに護憲派を躍進させねばなりません。そして中選挙区制への復帰を強く要求することです。
とんでもない危機意識を私たちは持たねばならないと思っています。
候補者を出す政党が多くなれば、より民意から遠い議席数になってしまうわけです。
細川連立内閣のときに小選挙区制を導入したのは、中選挙区制が政党間のなれ合いが酷くて、選挙が形骸化してきていたことも大きかったと思います。
定員5人の選挙区の場合には、社会党の1人と公明党の1人、のこり3人を、A市を地盤とする自民党の甲氏、B市を地盤とする自民党の乙氏、C郡を地盤とする自民党の丙氏、といったかたちで分け合って、全員が当選して、共産党の候補者は初めから落選確定、共産党が候補者を立てなければ無投票もあり、といったかたちで中選挙区制度は運用されてきました。
この場合に自民党の候補者の地盤の人たちは、自民党に投票するのではなくて、地元の利益代表に投票するといった感覚でやっていました。
社会党や公明党は支援組織の票だけで1議席は取れる、自民党は黙っていても6割の議席が取れるという仕組みでもありました。
金がかかると言っても、選挙に直接かかる費用ではなく、地盤とする地域に張りめぐらせて個人後援会の面倒を見るために金がかかったわけです。
議員の側にしてみれば、自民党であれば地域の地盤、野党であれば党の公認を得て当選できれば、大抵の場合には死ぬまで落選することなく議員がやれる仕組みでもあり、現職議員にとっては楽な制度でもありました。
中選挙区制度に戻せと言っている人は自分が楽な選挙で、ずっと現職で居られるから言っているという部分が大きいと思います。
党が出した比例名簿による比例代表制は、党の中で巧く立ち回れば有権者の支持がなくても当選できるのでこれも良くないと思っています。
一番分かり易いのは選挙区を作らず、全国一区の大選挙区で得票数の多い順に500人当選、としてしまえば、死票も減りますし、一票の重さの違いもなくなります。
全国一区では金がかかると言われるでしょうが、実際には無意味に全国を走り回っても仕方がないわけで、500人に入るのに必要な地域だけを走り回ることになるでしょうし、候補者の大きな負担になっている公設掲示板への個人ポスター貼りは、物理的に無理なので無くなり、名前の公示だけになりますから、かえって選挙費用は減るような気がします。
私としては選挙区なしの全国一区が最もいいように思いますが、如何でしょうか。
たかひろさんの全国一区の案、賛成いたします。
私は選挙権者ではありません。よって、以下は無責任な感想に過ぎません。
皆さんのご意見それぞれに一理あり、選挙制度の難しさ痛感します。現制度では、半熟煙草さんの仰るように、「全得票率3割足らずの政党が、好き勝手に立法や法改訂を行える」という不条理が生じてしまいます。私自身にアイデアがある訳ではありませんが、制度改革が必須であることは明らかでしょう。小選挙区制はもともと二大政党制を想定していると思います。しかし、日本には二大政党制はまったく根付いていないし、今後も根付きそうにありません。
選挙制度だけではなく、「世襲議員」も大問題です。一体全体、安倍晋三、麻生太郎、小泉進次郎といった連中に、政治家に相応しい知性が備わっているのでしょうか。日本の舵取りを気取っている彼らを見ると、大きな嘆息が漏れてしまいます。世襲議員のみならず、知名度だけに依存しているタレント議員や、元スポーツ選手の議員も問題でしょう。立候補希望者には、「被選挙資格試験」を課すべきだと、真面目にそう思います。
自民党が参院選でも同様に大勝すれば、改憲による戦前回帰の悪夢が、現実に近づきます。連立与党の公明は、改憲に反対することでしょう。しかし、その際は連立を解消し、維新その他の右派政党と組めばこと足ります。危険です。
読んでいて思ったのですが、結局はこのような選挙制度を、何も考えずに通してしまう日本人の「民度」にこそ、最大の問題があるということです。何か書こうと思ったのですが、どうしてもこういうところに落ち着いてしまうようです。ドイツ人並みの「民度」があればなあ、とね。
>たかひろさん
初めまして。
全国一区については、そういう案もあったのですが、実はその制度は、「一票の格差」がとんでもなく大きくなるという欠点があるのです。
例えばその制度で、得票数一位の議員への票は1000万票、得票数500位の議員への票は5万票だとすると、一位の議員に投票した有権者と、500位の議員に投票した有権者の間の「一票の格差」は、200倍になってしまいます。
1000万人で1人の議員しか選べず、一方では、5万人で1人の議員を選んでしまったことになるからです。
こうなると、たとえば得票数に換算すれば人口の90%が反対していても、10%によって選ばれた過半数の議員が法案を通すことも、理論上可能になってしまいます。これも民意の反映とは言えません。
この場合、例えば株式会社のように、議員一人当たりの獲得した「票数」を、そのままその議員が国会で持つ「議決権」にしてしまう、と言う制度にする手が無いでもないのですが、これは憲法上もおそらく認められないのです。
有力な地盤のある人は活動地域を狭くさせる、知名度があって全国的に票が取れそうな人は地域割りや組織割りから外して、知名度で獲得できる票だけにする、などといった手法で、1人の候補者に得票が集中することなく、多くの候補者が当選ラインよりも少し上に行くような得票になるようにもって行くはずです。
1人の議員で1000万票というのは仮定の格差にすぎませんが、現在の1票の格差は現実の格差であり、全国一区にすることにより、現実の格差を完璧になくすることが可能になります。
政令都市以外の市の市議選は殆どの場合に全市一区で行なわれており、トップ当選者と再下位当選者の間には数倍の得票の差がつくことが多いのですが、それが一票の格差として問題になったことはありません。
居住地による一票の格差は個人の力ではどうにもならないものであるのに対して、大量得票によって生じるかも知れない仮定としての一票の格差は、大量得票する可能性のある人気投票のような候補者に投票しなければいいだけの話であり、個人の投票行動で軽い一票を行使しないことが可能ですから、なんの問題も発生しないと思います。少なくとも今のような著しい地域格差が存在するよりはましです。
10年の参議院選挙はマスコミは民主党が負けたと報道しましたが、得票数は選挙区でも比例区でも民主党の方が多く、選挙区で60万票取った民主党候補が落選して、19万票の自民党候補が当選するという、1票の重みの著しい差によって議席数で民主党の方が少なくなったに過ぎません。
民主党の方が得票数が多かったのに1票の重さの不公平により議席が少なくなる、その結果として衆参の捻じれが生まれて、与党の意志が国会で通らなくなり、参議院で問責を連発されるという事態になりました。
これほど民意を反映していない選挙制度はないわけで、地域による1票の重さの違いの解消こそが最優先されるべきであり、完全なる地域による1票の重さの是正は全国一区制しかないと思っています。
私としては、ドイツの選挙制度、いわゆる「小選挙区比例代表併用制」が、最も理想的だと考えております。賢い先人、賢い国には、是非とも学ぶべきでしょう。
制度にも問題がありますが、一票の重い選挙区の有権者にも問題があると私は思っています。
新聞の投書欄などで、神奈川県の人から、神奈川県民の参議院選挙区の票は鳥取県民の5分の1しかない、余りにも不公平だという意見が寄せられると、次には、鳥取県民から、どうしても重い一票が欲しかったら鳥取県に移住すればいい、という反論がよく出てきます。
重い一票を自分たちの既得権益と考えていて、こういう不公平が民意を歪めこの国の政治を危うくするといった意識なんて欠片もないのです。不公平が社会全体にとって好ましくないという認識があれば、一票の重い選挙区の有権者から、自分たちの選挙区の議員を減らしてくださいという申し出があって当然なのですが、そのような話は今まで一度も聞いたことがありません。
一票の格差は民主主義を壊す要因になるから軽い選挙区の有権者が批判しているとは考えずに、批判している人が個人的に重い一票が欲しいだけで言っているのだから、文句を言っている人間が一票が重い地域に転居すればそれですべてが解決ではないか、それ以上の措置がどうしているのだ、といった感覚なのです。
選挙制度や一票の価値の違いについては、重い一票や、自分が支持する政党に有利な制度を、民主主義を破壊するものと認識することなく、自分たちの既得権益と心得ている有権者にも問題があると思えてなりません。
私にはむしろ「一票の格差問題」などに全く興味のない「馬鹿な有権者」こそ大問題だと思います。私の議論は、最後にはどうしてもここに落ち着いてしまうようです(笑)。「議員の数」については、以下をご参照のほど。
<日本には国会議員が多過ぎると思っている馬鹿どもへ>
http://takashichan.seesaa.net/article/126929290.html
私は当時労組の役員をしていましたが、組織内候補の代議士(当時は社会党)も、「政治改革」のために「選挙制度改革=小選挙区制」に賛成しなければならない、と熱弁してました。私は朝日新聞の石川真澄記者の論考などで勉強し、小選挙区制がいかに民意をゆがめる悪政であるかを労組の会議などでも主張してきましたが、労組幹部も「神輿に乗り遅れるな」とばかり、耳を貸しませんでした。その際に件の代議士が言った言葉が象徴的でした。「小選挙区制は民意を集約するものだ」 しかし、民意は「集約」するものではなく、「反映」するのが筋でしょ?と、思ったものです。
結論ですが、当時から小選挙区制度を推進していた人たちは、この制度が民意をゆがめることは、ちゃんと理解していたのですよ。にもかかわらず、当時の政治「改革」という「熱病」のため、そんなことは無視されていたのでしょう。
ちなみに件の代議士は、その後民主党に移り、何度か当選(全て比例区復活でしたが)した後落選。なぜか地元の保守系市長に誘われて教育長に「転職」しまし、民主党を除名処分となりました。