2012年09月29日

坂本龍一と大江健三郎

「たかしズム」にも、よくコメントをお寄せ下さるブロガーのホンマコウジさんが、次のようなことを何処かに書かれていたのを記憶している。何処に書いていたのか失念したので、正確ではないかもしれないことをお断りしておく。

「坂本龍一氏は、三菱重工(自動車だったかもしれない)のCMに出ていた。その反省もなく、反原発を叫ぶのは、無責任である」

よく覚えていないが、もっと強い口調ではなかったかという気もする。彼の言うことは私にもよく分かる。坂本龍一が三菱のコマーシャルに出ていたかどうか、実は私は知らないのだが、もし本当だとしたら、まずその事への反省の弁があってしかるべきだと思う。同様の心情を、私も武田邦彦氏に対して抱き、エントリーを書いている。


<武田邦彦の処世術>
http://takashichan.seesaa.net/article/214156058.html

<武田邦彦の処世術その2>
http://takashichan.seesaa.net/article/219351970.html

<武田邦彦の処世術その3>
http://takashichan.seesaa.net/article/219591903.html

<武田邦彦の処世術その4(何故人々はこうも簡単に騙されるのか?)>
http://takashichan.seesaa.net/article/237334764.html

尤も、私に言わせると、坂本龍一と武田邦彦を比べた場合、武田のほうが数段「悪質」だということになる。少なくとも武田は、何もかもすべて知った上での「確信犯」である。それに対し、坂本龍一はどうなのだろう?そもそも三菱のクルマのコマーシャルに出たというのは、いつ頃のことなのだろうか?まさか3.11以後ではあるまい。もしそうなら赦せないが、3.11以前であったのなら、赦しても良いのでは?と、私は思うのである。坂本がそのコマーシャルの仕事を受けた時に「三菱は原発ムラの企業だ。」と、彼は思っただろうか?彼はそう考えるには遠い「ノンポリ」だったのではなかろうか?忌野清志郎ならばその場でこの仕事は断ったに違いない(と言うより仕事は来なかったに違いないが)。それでもそのコマーシャルが、電力会社の「原発推進コマーシャル」だったら、坂本龍一は断っていたのではないか?クルマのコマーシャルだからこそ、ちょっと割のいい「儲け仕事」として事務所がつい受けてしまった、というのが本当のところだと思う。

大江健三郎に移ろう。本多勝一氏にとって「大江健三郎批判」は、ある意味ライフワークの一つといっていいくらいだ。私は若いころ、本多氏の「文春裁判」も傍聴したし、文藝春秋という会社が「反動的」なライターを使い、センセーショナリズムの手法を駆使する悪どい出版社であることは充分承知していた。「核武装」を声高に訴えるような「反核」とは無縁の出版社であった。だから大江健三郎氏が、その文藝春秋の文学賞の審査員を務める傍ら「反核文学者の会」声明に賛同者となることを、本多氏は「欺瞞」と考えた。そのことに関して彼は、かなり執拗に大江氏の行動を批判し「大江健三郎の処世術」というような文章を書いたりしていた。

本多氏の批判に「屈する」形で、その後大江氏は「芥川賞」の選考委員を降りることになるが、その際にも大江氏は「一身上の都合」ということで、言葉を濁した。本多氏の求める「反省」の言葉はなかった。そのことが、本多氏の怒りに油を注いだ。

時は移って、その大江健三郎氏が、こともあろうに「ノーベル文学賞」を受賞してしまった。いきなり世界規模で「時の人」となってしまった大江健三郎。ところが、その後の大江氏の行動が、またしても本多氏の怒りを買った。ノーベル賞を諾々として受け取った大江氏が、ノーベル賞受賞者に贈られることが「慣例」となっている、国の文化勲章を「返上」したのだ。

「返上」と聞いて思い出すのは、ビートルズの勲章返上、あるいは本多勝一による文春の「菊池寛賞」の返上である。このように、自分の主義主張に反する会社の文学賞を、断固「返上」するということを自ら「実践」してきた本多氏にとっては「芥川賞」を受賞するのみならず、その後同賞の選考委員を務めた上、批判されると「理由」も明らかにせずこっそりと降り、その一方でノーベル賞(この賞についても本多氏は批判的である)のようなステータスのある賞は、唯々諾々として受け取り、それよりもステータスの劣る「文化勲章」を、拒否する。それも今度は、芥川賞選考委員を降りたときとは違い、極めて批判的な「返上理由」をマスコミを通して「かっこ良く」語る。もし「文化勲章」が、ノーベル賞のあとでなく、それよりも前に単独で贈られたものだったなら、この男はおそらく「唯々諾々」として、これを受け取っていたであろうことは、誰もが憶測は付く。このような「見え透いた猿芝居」は、事情を知っているものであったなら、本多勝一氏でなくても赦せない、と思うのが当たり前であろう。

しかしである。

それにも増して「反原発」には、大江健三郎氏を、大いに「利用」すべきだと、私は考える。今や、どれほど姑息で「品性下劣」な人格の持ち主であろうとも「ノーベル賞受賞者」というインパクトは「残念ながら」それを払拭して余りある。だから坂本龍一も大江健三郎も「広告塔」として、大いに活躍してもらおうではないか?こんな私はご都合主義だと、つくづく思うが。

posted by takashi at 19:24 | Comment(12) | TrackBack(0) | 時事、政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
【金李朴】

これはなかなか難しい問題です。どこまでは許せて、どこからは許せないのか。

今回の記事を読む限りでは、本多勝一による大江健三郎批判は、やや行き過ぎの感があります。微に入り細に入り批判しようとすれば、いくらでも批判はできます。「国家権威の象徴の一つである東京大学に、浪人してまで入学した大江は俗物である」。これを徹底的にやれば、本多も決して無垢ではないでしょう。

私は大江や坂本をかなり肯定的に評価しています。大江は、ノーベル賞を受賞する際に「そろそろ日本人の順番とは思っていた。これは亡くなった安倍公房さんの代わりに受賞したに過ぎない」という意味の発言をしていたように思います。「日本文学を世界に読んで貰う。そのためにはここで受賞した方がよい。自分はサルトルほどの大物ではない」。当時の大江には、そんな思いがあったのではないでしょうか。
Posted by 金李朴 at 2012年09月30日 00:20
金李朴さん、

「美しい日本の私」これは「日本語の作文技術」によれば、悪文です。しかし、小説家は「悪文家」であっても、一向にかまわないと、私は思っています。そんなことを以前に書いたことがあります。

http://takashichan.seesaa.net/article/146877417.html

さて、私が今回言いたかったことは、最後の4行に集約されています。「ノーベル賞作家が反原発なのだから、私も反対しよう」こういう日本人は、いっぱいいます。大衆をまとめあげるのには、これしかないのです、日本では。しかし、敵もさるもの、NHKなどは、どんな有名人が原発に反対しようとも、報道しません。誠に困ったものです。
Posted by たかし at 2012年09月30日 15:26
 黒柳徹子のアフリカ救済と同じで、有名人なら利用できるものは利用すれば良いのです。
 本多勝一の大江健三郎批判についてだけど、もとは本多氏が単に大江氏の意見を伺いたいと頼んで、当たり障りがあるなら記録が残らないよう電話で話したりするだけで良いと申し入れたところ、大江氏から漠然とした返答があって、文春には堤ギョウのようなのがいて不愉快ではあるとのことだったけど、なのに公言しようとしないのだから大江氏は八方美人ではないかと本多氏が批判したのは周知のことです。
 そのあと、大江氏が朝日新聞に、本多氏から「転向した」と批判されたという曲解を書いたため、本多氏は怒ったのでした。
 転向したなら八方美人ではないので、大江氏は何を勘違いしたのでしょうか。
 訂正しろと本多氏は求めたけどね大江氏はあやふやな態度に終始していて、それから本多氏の批判がきつくなりました。
 しかし大江氏は悪意ではなく、深く考えていないのではないかと思われます。彼にとっては苦手な思考力が必要そうなことだから。誰だって苦手なことはあります。
Posted by jow at 2012年10月08日 22:33
おひさしぶりです。

サルトルの影響を色濃く受けた大江健三郎氏が、「神の子」という立場を取る「天皇」から「下賜」される「勲章」を受けないのは、むしろ「民主主義者」として首尾一貫していて「天晴」だと思うのですが。

もっとも、本多勝一氏は、天皇制についてそこまで踏み込んだ立場を取る大江健三郎氏の行動にこそ不快感を感じたのかもしれません。
Posted by おっさんZ at 2012年10月09日 09:43
>神の子

おっさんZさん、大江健三郎の「勲章返上」には、そういう意味があったのですか?しかし、その「神の子」は、もう70年も前に「人間宣言」しちゃってるんですがね(笑)。
Posted by たかし at 2012年10月09日 13:55
>神の子

確かに人間宣言をしてはいますが、私は決して予断を許さないものと思っております。
未だに、「天皇教」の信者が、昭和天皇が死んだ時に、「天皇が死んだのに音楽を聴くとは何事だ」と、ウォークマンで音楽を聴いていた女性を殴打した事件の記憶が頭から離れません。

>勲章返上

多くの勲章返上者は、「民主主義者としては(たとえ形式上であれ)君主の存在は認めない、従って「下賜」などもっての他、という立場を取ります。
私が叙勲されたとして(絶対有り得ませんが:笑)同じ理由から拒否(返上ではなく拒否)するでしょう。

しかし、大江健三郎は、そこまで明確な「民主主義者」としてのスタンスは取っていない(というか彼の年齢では取れない)ので、消去法的にも「キリスト者」(私はいかなる宗教家も嫌いですが:笑)としての立場から「返上」したのはほぼ間違いが無いと思われます。

基本的に、彼はノンポリで、宗教かぶれですから。
Posted by おっさんZ at 2012年10月17日 06:38
おっさんZさん、

大江健三郎の小説は一冊も読んだことがないので、彼の思想は全くわかりません。ただ、本多勝一氏の指摘からすると、かなり「処世術」に長けた人間であることは間違いなさそうです。なおノーベル賞についての私の考えが以下のエントリーにありますのでよろしかったどうぞ。
http://takashichan.seesaa.net/article/107790078.html
Posted by たかし at 2012年10月17日 11:46
私はいかなる宗教も大嫌い(国家神道やキリスト教は特に嫌い)なので、大江健三郎のような宗教かぶれの肩を持っている様に思われるのは心外なのですが・・・・。

著書を一冊も読んでいないのに、著作者を批判するのはやりすぎなのではないでしょうか?。
なんだか、いつものたかしさんらしくない、と感じるのですが。

>ノーベル賞についての私の考え

無理だと思いますよ、「ノーベル平和賞」を廃止するのは、平和賞がノーベル賞の根幹に関わる以上は。

まあ、時折「選考基準がオカシイんじゃね〜の?」とは思いますが。
所詮、1財団が勝手に表彰するだけで、国際機関が行っているわけでは無いシロモノです。

でも、私が受賞する立場(有り得ませんが)なら、お金が欲しいから貰っちゃうかな(笑)。
名誉や権威は欲しく有りませんが、お金は欲しいですよね、純粋共産主義者以外なら皆そうだと思いますが。

でも、ノーベル賞よりイグ・ノーベル賞の方がいいなあ(笑)。
Posted by おっさんZ at 2012年10月22日 05:07
おっさんZさん、

>著書を一冊も読んでいないのに、著作者を批判するのはやりすぎなのではないでしょうか?。
なんだか、いつものたかしさんらしくない、と感じるのですが。

「処世術」を批判するのに、著書を読む必要なんて無いと思いますが。ま、そのうち暇で暇で死にそうになって、他に何も読むものがない、という状況に出くわしたら、読んで見ることにいたしましょう。
Posted by たかし at 2012年10月22日 11:44
著作を読んでもいないのにどうして批評ができるのだろうと思ったけど、読んでいないと宣言している分だけ他のネットに転がる無責任な放言よりマシだ。
Posted by ねこ at 2013年05月03日 13:18
ねこさん、ありがとう(笑)。
Posted by たかし at 2013年05月03日 13:25
それでも読んだほうがいいと思う。

ちょうど小林秀雄がXへの手紙で「政治の取扱うものは常に集団の価値である。何故か(この何故かという点が大切だ)。個人の価値に深い関心を持っては政治思想は決して成り立たないからだ。」というように、かなしいかな、ネットの愛すべき?小さな巨人たちはなぜだか個人の価値を忘れがちになり、やたら攻撃的な文体を知らず知らずと身につけてるので。

さしずめ大江は「空の怪物アグイー」がおすすめにゃ

おれの足を揉めにゃ、政治は良いからままたびを持ってこい

吾輩は猫である、よく本を読む、保守ではないが左派でもない、夜、足が痛い
Posted by あしをつったねこ at 2013年08月11日 01:05
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