2012年08月09日

「差別」と「区別」

今日は「言葉の概念」について少し書かせていただくことにする。例によって、とりとめの無い内容なので、あまり深く考えないで読んでいただけると嬉しい。

「言葉の概念」と一言で言っても「具体的な概念」もあったり「抽象的な概念」がある。具体的なもので、分かりやすい例として、以前こんな図式を見ていただいたことがある。

<中国の「麺」およびイタリアの「パスタ」と、日本の「麺類」の概念の図式>menruibunrui.BMP


中国語における「麺」の概念と、イタリア語における「パスタ」の概念は、ほぼ一致対応しており、それらと日本語の「麺類」の概念を図式化すると、およそ上記のようになる、というものである。両者の違いを簡単に言うと、中国語やイタリア語では「小麦粉から作られた食品」を「麺」あるいは「パスタ」と名付けているのに対し、日本語では「長い形をした食品」を「麺類」としている。このことから、概念のズレが起き、日本では、例えばだから「しらたき」を「麺類」と言ったりする人もいるほどだ。

次に、もう少し抽象的な概念の例を見ていただくことにする。日本語における「文明」と「文化」の概念の関係である。ご参考までに「大辞林」における、これらの語句の定義を見てみよう。

ぶん‐めい【文明】    
人知が進んで世の中が開け、精神的、物質的に生活が豊かになった状態。特に、宗教・道徳・学問・芸術などの精神的な文化に対して、技術・機械の発達や社会制度の整備などによる経済的・物質的文化をさす。

ぶん‐か〔‐クワ〕【文化】    
1 人間の生活様式の全体。人類がみずからの手で築き上げてきた有形・無形の成果の総体。それぞれの民族・地域・社会に固有の文化があり、学習によって伝習されるとともに、相互の交流によって発展してきた。カルチュア。「日本の―」「東西の―の交流」
2 1のうち、特に、哲学・芸術・科学・宗教などの精神的活動、およびその所産。物質的所産は文明とよび、文化と区別される。
3 世の中が開けて生活内容が高まること。文明開化。多く他の語の上に付いて、便利・モダン・新式などの意を表す。「―住宅」

[用法]文化・[用法]文明――「文化」は民族や社会の風習・伝統・思考方法・価値観などの総称で、世代を通じて伝承されていくものを意味する。◇「文明」は人間の知恵が進み、技術が進歩して、生活が便利に快適になる面に重点がある。◇「文化」と「文明」の使い分けは、「文化」が各時代にわたって広範囲で、精神的所産を重視しているのに対し、「文明」は時代・地域とも限定され、経済・技術の進歩に重きを置くというのが一応の目安である。「中国文化」というと古代から現代までだが、「黄河文明」というと古代に黄河流域に発達した文化に限られる。「西洋文化」は古代から現代にいたるヨーロッパ文化をいうが、「西洋文明」は特に西洋近代の機械文明に限っていうことがある。◇「文化」のほうが広く使われ、「文化住宅」「文化生活」「文化包丁」などでは便利・新式の意となる。

以上は、抽象的な概念である「文明」と「文化」を大変に分かりやすく説明してくれている定義だと思う。ところが私は「大辞林」の定義とは別に、もう一つ、司馬遼太郎氏の定義というものを、以前にご紹介したことがある。それは次のようなものであった。

・文化とは、優劣がなく、普遍的でないもの
・文明とは、優劣があって、普遍的なもの

この定義は、実によく出来ていて、簡潔でありながら、ほとんどすべてを「言い尽くしている」と思っている。今回私は次のような図式を作ってみた。

<「文明」と「文化」の図式>

文明と文化.jpg


例えば「米食」というのは明らかに「文化」である。一般に「食文化」と言われるように、通常「食」は「文化」の範疇に入るものと見るべきだろう。だから、これには「優劣」は無い。例えば「米食」よりも「パン食」のほうが文化的に上だとか「椅子」の生活が「畳」の生活よりも上だということはない。同様に「クジラ食」が「犬食」よりも文化的に高級であるということもなければ、丼を「混ぜないで」食べる文化が「混ぜて」食べる文化よりも優れているということはない(もちろんこの場合「倫理」というものには、敢えて触れないでおく)。このへんのことを私は、以前に「日本人とユッケビビンバ」と題したエントリーで書いた。

さて、司馬遼太郎氏は、上記のように、この2つを切り離して定義をしたわけだが、実は「文明」と「文化」は、互いに重なりあう概念でもある。同じ事物に対し「文明」という評価をしても良いし「文化」という評価もありうる、というものが、相当無数にある。それが、私の描いた図式の真ん中の部分。例えば「電気釜」というものがあるが、これは「米食」という「文化」を機械文明によって推し進めた結果、究極的に得られた「文明」である。だから「文化」であり、同時に「文明」である存在なのだ。その意味で、「電気釜」には「優劣」が存在することになる。戦後すぐに作られた旧式の電気釜よりは、現代のITを装備した電気釜は、文明的には明らかに優れている。こうして見ると「文化」は、ある程度「古いもの」、「文明」は比較的「新しいもの」ということができそうである。

しかし、では例えば「黄河文明」という言葉がある。「黄河文明」といえば随分、古いじゃないか?と、問われるとそのとおりなのである。しかし、同時代で限ってみれば「黄河文明」は、他より新しかった。何故なら、近隣の国では未だに土器や石器を使っていたのに「黄河文明」では、すでに文字まで作り上げていたわけであるから、当然「新しく優れた」ものであったといえる。とするとやはり、文明とは、比較的「新しいもの」にしっくりと来る言葉のようだ。しかも当然、司馬遼太郎の言うように「優劣」があるということになる。

しかし、ここでハタと、ある事実に行き当たる。「古い文明」のほうが「新しい文明」よりも、優れているということはないか?という疑問である。考えてみると、それがけっこうあったりする。電気釜で炊いたご飯より、鉄釜と竃で炊いたご飯のほうが美味しい(優れている)などという場合。古代ギリシャの民主主義社会は、ヒトラー独裁のドイツより、天皇制軍事国家の日本より、スターリン時代のソ連より、優れていた、というような場合。こう考えていくと、常に「新しい文明」が優れている、とも言えそうにない。

例えば、古い楽器は、現代の楽器より「劣っている」とは限らない。キーなどの機械装置的には、劣っていても「音色」では優っている、と感じる人もいる。だから現代において「古楽器ブーム」なども起きたわけである。バッハの音楽より、シェーンベルクやストラビンスキーの音楽のほうが新しいから「優れている」などとは誰も思わない。100人が居たら、むしろ多分98人くらいは、バッハのほうが優れている、と答えるに違いない。あるいは「それは比較にはならないよ」などと、言う人も居るかもしれない。そして多分、その人が正しいのだ。つまり、実は音楽に代表される「芸術」こそ、まさに「文化」そのものなのであるから「優劣」などつけることなど出来ないよ、というのが、この問題の「正解」なのだ。ポピュラー音楽よりクラシックのほうが上、ということもなければ、演歌よりジャズが上ということもない。歌舞伎より文楽のほうがが下でもなければ、吉本喜劇が文楽よりも上ということもない。結局、司馬遼太郎の「文明・文化」の定義が、最も当を得た解釈だということになる。

さて、ここからが今日の「本題」となる。

「差別」と「区別」という概念も、互いに重なる部分の多い概念である。いわゆる「境界線が曖昧」というやつである。だからこそ、ネトウヨなどが差別的なことを言っておいて「これは差別ではなく区別」などというエクスキューズに利用したりする。さて、例によって「大辞林」から。

さ‐べつ【差別】    
[名](スル)
1 あるものと別のあるものとの間に認められる違い。また、それに従って区別すること。「両者の―を明らかにする」
2 取り扱いに差をつけること。特に、他よりも不当に低く取り扱うこと。「性別によって―しない」「人種―」
3 ⇒しゃべつ(差別)

く‐べつ【区別】    
[名](スル)あるものと他のものとが違っていると判断して分けること。また、その違い。「善悪の―」「公私を―する」

このとおり、ほとんど同じといってもいいくらいである。どちらも複合動詞「-する」の形で用いられる。ただし、差別の方は「2」の分だけ意味する範囲が広がっている。つまり、区別は、もっぱら「必要」を以って為されるものであるのに対し、差別は「恣意的に」「悪意を以って」「不当に」行われる場合もある、というのがこの2つの概念の、主な違いなのである。しかし「悪意があるか、無いのか」の境界もまた曖昧である。しかし、ネトウヨが「これは差別ではなく区別だ」などと言う場合は、明らかに「恣意的に」「悪意を以って」行なっている場合がほとんどであるから、そんなものは問題外といえるのである。ネトウヨが「差別」を「正当化」している例として、以下にご紹介するが、読んで気分が悪くなるかもしれないことを、予めお断りしておく。

Valziek
http://takashichan.seesaa.net/article/105960343.html

さて、そんな「差別」という言葉を伴った熟語には、ネガティブなものが当然多いことになる。「人種差別」「民族差別」「女性差別」「障害者差別」「外国人差別」「雇用差別」「学歴差別」「部落差別」・・・。特に、持って生まれた「属性」に対して行われる「差別」が一般に、より醜悪であるとされる。ネトウヨが「得意」とする分野がまさにこれだ。なお「レイシズム」という言葉は、一般に「人種差別」をさすが、これも少し曖昧なようである。アメリカの白人が、黒人や、アジア人を差別する場合は分かりやすいが、ナチが行なった「ユダヤ人差別」は、果たしてレイシズムだろうか?そもそも「ユダヤ人」というのは、学問的には人種ではないし、民族ですら無い。より正確には「ユダヤ教を信仰する人(すなわち共同体)」を指すのである。そもそもヒトラーは学問的に「人種」というものをちっとも理解してはいなかった。だから、エチオピアには「黒人のユダヤ人」すらいることをヒトラーは知らなかっただろう。尤もそれ以前に、ヒトラーは黒人も(こちらは正真正銘の)「人種差別」していたのだから関係ないが。ヒトラーは、ありとあらゆる民族や共同体を差別したが、その中でも、主に彼が憎悪した対象は「白人種のユダヤ人」であった。祖国の経済を陰で支配しているのは、ユダヤ人である、と信じ込み(ただしそれは少なからぬ事実でもあったのだが)攻撃したのだ。※注1)その意味で、日本人の、アジア人(特に在日朝鮮韓国人)差別は、ヒトラーのユダヤ人差別と似ているかもしれない。「日本を陰で支配しているのは、在日朝鮮人である」(尤もこちらの方はただの「妄想」でしかないが)とは、ネトウヨからよく聞かれるセリフである。以上は、明らかに「区別」ではない概念としての「差別」であった。

次は、境界線の曖昧な場合。これが実は「ジェンダー」の領域に極めて多い。よく例に出される、例えば「生理休暇」は、女性の身体的特徴を考慮した制度であり、生活保護の「母子加算」は、女性の社会的権利の弱さを考慮した制度である。また、3.11以降、女性を放射能から守る(疎開させる)、というのは女性が「産む性」であることから当然といえる。これらは「差別」ではなく「区別」とされる。それに対し「女性は家庭を守っておれば良い。男性に従属しておればいい。女性に選挙権は要らない。」つい70年前までのこうした「無権利状態」は、紛れもなく「差別」とされる。

だが、それでは中曽根康弘が言った「家庭の主婦は、私の言うことなど聞いていない、私の締めているネクタイの柄しか見ていない」はどうだろう?常識の範囲で言うとこれは、間違いなく「差別発言」であろう。建前はそれでいいと思う。しかし、一面、これは「真実」ではないのか?と思う人もいる。私もその一人。私は、男性にも女性にも、これを「真実」だ、と思う人がいるのではないかと思っている。

そうなのだ、これを言ってしまう私が良くないのだ(笑)。しかし、石原慎太郎を四期も当選させ続けているのは紛れも無い「女性票」だという事実(これはいわゆる「出口調査」によって証明されている)がありながら、これを批判してはならない、としたら、これは「思想統制」にならないだろうか?冗談はさておき、一昨日REDさんが、次のように書いて下さったのは、だから私にとっては「助け舟」であった。

>そんな事言ったら日本人的なダメなところ、男性的なダメなところも批判できなくなりますよ。
>男にもダメなところがたくさんあるように女にもダメなところが多々あるのです。
>自分は違うと言うのは個人的な話で、全体的な傾向やデータに基づいた分析などは重要です。

※注1)
ヒトラーが「日本人」をどう評価していたかについては、次のエントリーを参照されたい。

<「差別」と「区別」の図式>
20140125_152302.jpg



posted by takashi at 22:59 | Comment(12) | TrackBack(0) | その他雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 「差別」と「区別」に関する長文のご考察、大変興味深く拝見いたしました。

 私は、「差別」にせよ「区別」にせよ、日本に於いては近代的概念というよりも、現代的概念ではないかと思っています。
 
 江戸時代には、生まれながらに身分の差があるのが人の世のふつうの姿であり、上を妬まず、下を軽侮することによって、ささやかな自己満足の世界に身を置くのが賢い処世術であって、それを差別と認識する感覚そのものが存在していなかったと私は考えています。

 明治になっても、差別を悪とする感覚は成立せず、朝鮮を植民地支配することによる朝鮮人への差別感覚や、中国への侵略と並行して中国人への差別感覚も、半ば政府の主導で当たり前の事として成立しました。差別している人たちは、それを差別と考えることなく当然のものと認識していたと思います。

 戦後になって差別は悪いと言うことが行政主導で言われ出して、今は一応の常識になっていますが、ネトウヨのように戦後の社会を否定したい人間にとっては、差別が悪いという戦後に作られた常識もまた、否定の対象になっています。

 ただ、狡猾なネトウヨは、差別を肯定しつつ、自分が差別の被害者になりすますことによる利益も計算しています。そこで出てきたのが差別と区別の使い分けではないかと思います

 自分たちが、朝鮮人や中国人、被差別部落の出身者をその出自や国籍だけをとらえて、誹謗中傷するのは全て正当な区別であるが、自分がマスコミや公務員に職を得られないのは、在日外国人を優先的に採用して日本人を失職させる社会的差別だと、ネトウヨの論法ではなっています。

 自分がやる場合には、どんな悪辣なことでもそれは全て区別であるが、自分がされる場合には、被害妄想そのものの認識であってもそれは差別である、つまり「差別」と「区別」違いは、自分がやる側に立つか、やられていると主張するかの違いなのではないかという気がします。
 
Posted by たかひろ at 2012年08月10日 22:40
【たかし】

たかひろさん、いつもありがとうございます。

江戸時代、明治、戦前戦中までの「差別」に関しましては、たかひろさんのおっしゃるとおりの事情があったと、私も思っておりました。

>江戸時代には、生まれながらに身分の差があるのが人の世のふつうの姿であり、上を妬まず、下を軽侮することによって、ささやかな自己満足の世界に身を置くのが賢い処世術であって、それを差別と認識する感覚そのものが存在していなかったと私は考えています。

「存在しなかった」というより、正しくはこれを、当時の「支配階級」によって「そう思わせられる」ように仕向けられたというのが、私の解釈です。そのへんのことは以下のエントリーで述べていたのを今思い出しました。もしよろしければご一読願いたいと思います。

<ネトウヨのいじめについて>
http://takashichan.seesaa.net/article/106013942.html


Posted by たかし at 2012年08月10日 23:05
今回のお話は、知り合いのある方を思い出させます。

彼女の配偶者はミソジニー垂れ流しで正直言って気色悪い人なんですが、彼女自身は旦那に基本賛同しています。で、それについて遠まわしに疑義を投げかけてみると「自分は違う」とか「自分にはあてはまらない」と思ってるようなのですね。

何と申しましょうか、つける薬がねえ。とは正にこれだなと思った次第です。
Posted by kgofboston at 2012年08月11日 00:50
たかしにつける薬はねぇ。
早く就職しろよ。
Posted by 竹島 at 2012年08月11日 11:15
Posted by 竹島 at 2012年08月11日 11:15につける薬はもたっいねぇ。
早く夏休みの宿題しろよ。
Posted by あるふぁ at 2012年08月11日 11:49
我々「抑圧者」である男性はどうしてもこの問題の対しては「鈍く」なってしまいますね。
基本的には「差別かどうかは、された側が決める」というのが原則ですので、「被抑圧者」である女性の言葉には、よくよく耳を傾ける必要がありそうです。
今回の記事には、改めて考えさせられました。
自戒の思いと共に。

言うまでもない事なのですが、ネトウヨの言う「ネトウヨ差別」なるもの(笑い)は、当然「基本的な原則」から大きく外れたもので、「論外」です。
Posted by やす at 2012年08月11日 13:05
>ネトウヨの言う「ネトウヨ差別」なるもの

そうですね。それについては私は最初から「釘」を刺しております(笑)。

<お 願 い(初めて「たかしズム」においでのネトウヨさんへ)>
http://takashichan.seesaa.net/article/121124599.html
Posted by たかし at 2012年08月11日 13:29
【パブロン中毒】

僭越ながら、斎藤美奈子「物は言いよう」などがまさに、諸氏の「一部ご懸念」に触れた一作であるかと思います(笑)。
私はこの問題について「笑」と言っているほうがよいと思えるようになったのかもしれません。し、実はそうなっていなくてそう思い込んでいるだけかもしれませぬが。
たかしズム諸氏(の範囲内に限りまして)におかれましては、「言いよう」が「出た」場合には、わたくしのほうから遠慮のない突っ込み(笑)をさせていただきますゆえ、常日頃からびくびくとなさることは全くございません。
「言いよう」が出ても、突っ込みに「正しい対処」をしていただければOKでっす。
正しい対処とは〜突っ込みが入った場合に、それなりの「ボケ」を披露していただければ問題はありません〜。
その「ボケ」が面白ければ、許されます。
ので、常に「面白いボケ」を発する用意をしていただいていれば、みなさま(たかしズム諸氏)の人生は安全です(本当か…)。
Posted by パブロン中毒 at 2012年08月11日 17:14
>斎藤美奈子「物は言いよう」

Amazonに¥45で中古品が出ておりましたので、早速注文してみました(笑)。
Posted by たかし at 2012年08月11日 19:18
初めまして。Gontaと申します。
週1くらいでこのサイトを拝見しております。

確かに「差別」と「区別」の区分は難しいですね。区分する際に、客観的に区分できるものもあるものの、発言の対象者がどのように感じたかという主観的部分が残るのが理由でしょうね。

「事実の開陳」と「名誉毀損」も、これと似たような危険性を孕んでいるのではないでしょうか。

以上、駄文で失礼いたしました。
Posted by Gonta at 2012年08月13日 14:10
【たかし】

パブロン中毒さんに勧められた「物は言いよう」(斎藤美奈子著)を、読み終わりました。最後の方は「飛ばし読み」になってしまいましたが。生真面目にジェンダーを論じると言うよりは、面白い「読み物」という感じでした。

かなり「悪質な」(主に男の政治家による)女性差別発言から、それほど「悪気」のない(主に作家や文化人などの)「リップサービス」まで、サンプルを「よくこれだけ集めたものだ」というのが、まず私の感想。それと、なるほどこういうことまでが「セクハラ」になるのか、ということがわかり、それなりの「勉強」にはなりました。

ただ、私の疑問「何故女性は一般論を嫌う傾向があるのか?」という疑問は、残念ながら解決しませんでした。それともう一つ、意外な発見が。この著者にも男性に対する「一般化」の箇所がここかしこに見られたことです。例としてひとつ。78ページから79ページにかけて「何故男性はかくもモロいのか」を論じています。

さだまさしの「関白宣言」という歌に、「♪おれより先に死んではいけない」とかなんとかいう一節があったのを覚えているだろうか。あれですよ、あれ。青少年期には母に庇護され、結婚したら妻に面倒をみてもらうのが当たり前だった男子は、「妻が先に死ぬ」というイメージを持っていないのではなかろうか。多分コワくて持てないのだ。他方、女子教育の中には「万一夫に先立たれた場合」というのが、戦前の良妻賢母教育の時代から、それとなく織り込まれてきた。(後略)

この著者も結局、無理やり「一般論」を述べているのだから、かなり「どっちもどっち」だと思いましたね(笑)。
Posted by たかし at 2012年08月19日 18:35
【パブロン中毒】

そうでしたか、わざわざお取り寄せいただき、感想まで教えていただいて、恐縮です。
斎藤美奈子は「なんでも個人差で片付けようとする」という欠点を克服できない人でして、その点には苦笑してしまいます。
そのわりには、得意の男性いじりでは一般論を適用しがちです。
それはたぶん「芸」の一種と思ったほうがいいのかなあと思ったりします。
斎藤の書くものは、エンターテインメントとして読むことがおおむね正しく、アラを指摘しはじめるとキリがなくなるかと思います。
フェミニズムの裾野を広げようとしてお笑いに転じてしまったという人かなあなどと思っています。しかし、「妊娠小説」からの一連の突っ込み路線においては、ある方向性を切り拓いたということで一定の成果を出したといえるかもしれません。
Posted by パブロン中毒 at 2012年08月21日 21:22
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