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2010年12月04日
オノ・ヨーコ氏のこと
ジョン・レノンが非業の死を遂げてから30年近くになる。もし彼が天寿を全うしていてなら、どれほど多くの素晴らしい音楽を世界に残してくれただろうか?それを考えると殺人犯人に怒りを禁じえない。
いわゆる「ビートルズ世代」に属する私が、初めて映画「レット・イット・ビー」を見たとき、画面の中をうろちょろするオノ・ヨーコに、失礼な言い方だが「不快」なものを感じた。当時、オノ・ヨーコとの関係が元で、ジョン・レノンはビートルズの中で完全に「浮いた」存在だった。ジョージとリンゴは努めて気にしていない様子だったが、ポールとジョンの関係は完全に壊れていた。そのため、いわゆるレノン・マッカートニーの作品を聞けるのは、この「レット・イット・ビー」が最後のアルバムとなってしまった。当時、私の周りの誰もが、ジョンはヨーコによって「堕落」させられた、と思っていた。ビートルズの音楽を愛する者にとって、ヨーコは「悪魔」のような存在だった、と言って過言ではない。本場イギリスでも酷評されていたように、失礼ながら飛び抜けて「美貌」を備えているわけでもなく、二度の離婚歴のあるオノ・ヨーコに、何故あのジョン・レノンがのめり込むようになったのか、皆いぶかしく思っていたものだった。思い出したが、映画『イマジン』の中には、ヨーコを口汚く罵る女性ファンや、あからさまにヨーコを侮辱する自称「ファシスト」の漫画家、アル・キャップが出てくる。特に後者はレイシストそのものであった。さすがに見ていて不快になったものだ。
それからずいぶんと経った頃、私はオノ・ヨーコ氏の「回想録」を読んだ。もうその頃には私の中のヨーコに対する「偏見」も消えていた。その頃私は、ジョン・レノンにとってのオノ・ヨーコの存在を、正当に評価し認める心境になっていた。それもかなり好意的な見方に変わっていた。彼女が並々ならぬ才能を持った芸術家であり、社会運動家であることもはっきりと認識するようになっていた。確かにヨーコはジョンを変えた女性だったのだ。それも良い方向へ導いたパートナーだった。戦前の共産党員市川正一ではないが、ジョンにとってヨーコと出会った後の人生が、彼の「本当の人生」だったのではないか?ベトナム反戦運動に始まり、プラスチック・オノ・バンドによる実験的な音楽、平和運動や政治運動そしてチャリティー活動、様々なジャンルの芸術家たちとの交流、音楽活動を休止しての子育て等など・・・。ある意味「プラグマティズム」に支配されていたポールの活動とは、一線を画していた。おそらくアイドルグループ「ビートルズ」の単なるメンバーのままであったなら、決して経験できなかったであろう人生を、ヨーコと出会ったことにより、その後のジョンは過ごすようになる。何よりも名曲「イマジン」は、ヨーコとの出会い抜きには存在し得なかった楽曲ではなかったか。
ヨーコの「回想録」の中に好きな一節がある。ジョンが亡くなってずいぶん経ってから、思い出の軽井沢を訪れたオノ・ヨーコ氏の体験談だ。日本で子育てに専念していた当時、ジョンが気に入ってよく利用していた喫茶店を、ジョン亡き後初めて訪れたヨーコ氏の目の前に、喫茶店のオーナーが、ライターをそっと差し出す。「ご主人のお忘れ物です。お返しする日を待っておりました。」ここで彼女は、一気に時空を超えて懐かしい時代へともどって行くのだ。そんなエピローグがたしか「回想録」の最後に書かれていた。今月8日はジョン・レノンの30回目の命日だ。
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