※注)「饅頭恐い」 (五代目古今亭志ん生) http://www.youtube.com/watch?v=uM_mNLENpCY
ところで話は変わるが、日本の「歌」は諸外国とは違い、メロディラインが日本語のアーティキュレーション(抑揚)に制約されることが多い。これは、明治時代の「唱歌」において、そのような「作曲法」が良しとされ、奨励されたからだというが、この伝統は江戸時代以前からもちろんあった。
しかしここで妙なことが起きる。それはその歌の作曲家の「出身地」によりメロディラインに違いが出てくる、ということだ。実を言うと上に挙げた志ん生の「赤とんぼ」のイントネーションは、童謡「赤とんぼ」のメロディラインと同じだ。その理由は、作曲者の山田耕筰が東京生まれの東京育ちだからなのだ。ということは大阪生まれで大阪育ちの作曲家の作った歌は、大阪弁のメロディになるのか?と言うと、実にその通り。これが面白いほど全くその通りなのだ。例えば同じ「赤とんぼ」でも「あのねのね」。言っておくが、最近の例えばサザンオールスターズの歌は、日本語のイントネーションを完全に無視している、あれは別格だ。なにしろ黙って聞いていると英語のように聞こえる。松任谷由実にしてもそう。日本語のイントネーションなどハナから無視している。だが、現代でも演歌などは日本語のイントネーションをかなり踏襲した曲が多い。一昔前のフォークソングにしてもそうだ。演歌でよく引き合いに出されるのは、ちあきなおみの「喝采」であろう。この歌の歌詞を、曲のイントネーションで「しゃべって」みて欲しい。関西弁の抑揚になっているはずだ。その理由はこの曲の作曲家が、関西生まれの関西育ちだからなのだ。
【喝采】
いつものように 幕が開き
恋の歌 うたう私に
届いた報せは 黒いふちどりがありました
あれは三年前 止めるアナタ駅に残し
動き始めた汽車に ひとり飛びのった
ひなびた町の昼下がり
教会の前にたたずみ
喪服の私は 祈る言葉さえ失くしてた
【風】
人は誰もただ一人旅に出て
人は誰もふるさとを振り返る
ちょっぴりさみしくて振り返っても
そこにはただ風が吹いているだけ
人は誰も 人生につまずいて
人は誰も 夢やぶれ振り返る
ただし日本語の歌には、ある「限界」がある。それは一番の歌詞で、ほぼ言葉の抑揚通りのメロディが出来上がったとしても、二番以降そうはならないことが多いのである。その場合、普通は二番以降が「犠牲」にされる。前出の山田耕筰は、それを潔しとせず一番と二番のメロディを変えて作曲したというのは有名な話だ。蛇足だが、江戸時代の音曲のうち「都々逸」「小唄」「端唄」は東京弁の抑揚で歌われ、それに対して「義太夫」は大阪弁の抑揚で語られる。
今朝の別れに 主の羽織がかくれんぼ
この酒を 止めちゃ嫌だよ 酔わせておくれ まさかしらふじゃ 言いにくい
ヨーロッパ音楽においては昔から、音楽と言葉は単純にアクセントのみが一致すれば良かった。つまり単語のアクセントが音楽のほぼ「強拍」に来るのみで良しとされる。このことはヨーロッパ音楽(歌)の利点である。日本語のように「抑揚」の制約がないぶん、メロディの可能性がより多くなるからだ。例えばヘンデルの「Hallelujah」のメロディでは「Ha」の音高が低かろうが高かろうが「lu」にアクセントがありさえすればよい、ということになる。ドイツ語の「Allelijah」もアクセントは同じなので、メロディが同じでも問題はない。そのかわり「Telephon(e)」という単語のように、英語とドイツ語でアクセントが違う場合は、メロディラインも違ってくることになる。
このような事情で、ヨーロッパの歌を日本語に「翻訳する」という作業は、とてつもなく大変な作業だと思う。まず、元のメロディラインにぴったり合った(あるいは少なくとも不自然ではない)抑揚の日本語の単語を当てなくてはならない。またヨーロッパ言語のような「音節」の少ない言葉を「音節」の多い日本語に置き換える作業も大変だ。尤もそこはよく出来たもので、日本語の場合は「省略」が効く。「言外の言」や「含み」を持った言い回しが多いからだ。主語の省略などもありがたい習慣だ。問題は、そうやって「翻訳」された歌詞の「意味」が、元の歌詞と合っていなくてはならないことだ。ヨドバシカメラみたいな「替え歌」では困るわけだ。この「意訳」という意味で、私が素晴らしい訳詞だと思っている例を最後に挙げてみようと思う。それは、なかにし礼作詞(訳詞)の「知りたくないの」である。はっきり言って「翻訳」としては飛んでいるが、日本語の「格調」とメロディとの「調和」において、文句のつけようがない。
【知りたくないの】
あなたの過去など 知りたくないの
済んでしまったことは
仕方ないじゃないの
あの人のことは 忘れてほしい
たとえこの私が 聞いても言わないで
あなたの愛が 真実(まこと)なら
ただそれだけで うれしいの
ああ 愛しているから
知りたくないの
早く昔の恋を 忘れてほしいの
【I really don't want know】
How many arms have held you
And hated to let you go
How many, how many, I wonder
But I really don't want know
How many lips have kissed you
And set your soul aglow
How many, how many,I wonder
But I really don't want to know
バカウヨを相手にするより、このようなエントリーの方が良いですね。
ちなみに、口笛だけでほとんど通じる言語もあるそうです。面白いですね。
時々口直しにこのようなエントリーを書くことを心掛けております(笑)。
本文に書かなかったのですけれど、生粋の江戸のイントネーションで話すタレントに、稲川淳二という人がいますね。先日、この稲川淳二がテレビで関西弁をしゃべっているんで「どうしたんだろう?」と思ってよく見ると、それは桂米團治という落語家でした(笑)。
私は、なじみのある音楽は歌謡曲・童謡・ポピュラー・クラシックその他なんでも好きですので、ここの文章を一気に読んでしまいました。
赤とんぼ は赤とんぼの「あ」のアクセントがどうだこうだというようなことをよく聞きましたが、そういう些細なことは、現行の枚数が増えて喜ぶ音楽評論屋にまかせて、私はもっぱらきれいなメロデーを聞いて楽しんでいます。
さて、外国の歌の訳詩のことです。ここでは「知りたくないの」を優れたものとしてあげられていますが、私は訳詩のぴか一は「ローレライ」ではないかと考えています。
ローレライのことを何一つ知らない人でも、訳詩を3番まで聞けば原詩の言わんとしていることを100パーセント完全に知ることができます。しかし、知りたくないの訳は、雰囲気だけはなんとなく伝わりますが、原詩が描いている、相手の過去の激しい恋愛のさまが伝わってきません。
私はドイツ語はまったくわかりませんが、下に書いた直訳の意味から見ても近藤朔風の訳は本当にたいしたものだと思います。
“Die Lorelei”
<ドイツ語歌詞> <日本語歌詞>
Ich weiß nicht, was soll es bedeuten, なじかは知らねど
Daß ich so traurig bin; 心わびて
Ein Märchen aus alten Zeiten, 昔の伝説(つたえ)は
Das kommt mir nicht aus dem Sinn. そぞろ身に沁(し)む
Die Luft ist kühl und es dunkelt, 寥(さび)しく暮れゆく
Und ruhig fließt der Rhein; ラインの流(ながれ)
Der Gipfel des Berges funkelt 入日に山々
Im Abend sonnen schein. あかく映(は)ゆる
Die schönste Jungfrau sitzet 美(うる)わし少女(おとめ)の
Dort oben wunderbar, 巌(いわ)に立ちて
Ihr goldnes Geschmeide blitzet, 黄金(こがね)の櫛とり
Sie kämmt ihr goldenes Haar. 髪の乱れを
Sie kämmt es mit goldenem Kamme, 梳(と)きつつ口吟(ずさ)む
Und singt ein Lied dabei; 歌の声の
Das hat eine wundersame, 神怪(くすし)き魔力(ちから)に
Gewaltige Melodei. 魂(たま)も迷う
Den Schiffer im kleinen Schiffe, 漕ぎゆく舟人
Ergreift es mit wildem Weh; 歌に憧れ
Er schaut nicht die Felsenriffe, 岩根も見やらず
Er schaut nur hinauf inieHöh'. 仰げばやがて
Ich glaube, die Wellen verschlingen 浪間に沈むる
Am Ende Schiffer und Kahn; 人も舟も
Und das hat mit ihrem Singen 神怪(くすし)き魔歌(まがうた)
Die Lorelei getan 謡うローレライ
《訳》
どうしてこんなに悲しいのか わたしはわけがわからない
遠いむかしの語りぐさ 胸からいつも離れない
風はつめたく暗くなり しずかに流れるライン河
しずむ夕陽にあかあかと 山のいただき照りはえて
かなたの岩にえもいえぬ きれいな乙女が腰おろし
金のかざりをかがやかせ 黄金の髪を梳いている
黄金の櫛で梳きながら 乙女は歌をくちずさむ
その旋律(メロディ)はすばらしい ふしぎな力をただよわす
小舟あやつる舟人は 心をたちまち乱されて
流れの暗礁(いわ)も目に入らず ただ上ばかり仰ぎみる
ついには舟も舟人も 波に呑まれてしまうだろう
それこそ妖しく歌うたう ローレライの魔のしわざ
ローレライの訳詞、素晴らしいですね。格調高い文語を用いて、原詩の言わんとすることを余すところなく言いつくしているのではないかと思います。「なじかは知らねど」ですか。さいたまんぞうの「なぜか埼玉」を思い出してしまいます。
「知りたくないの」について若干補足いたします。菅原洋一がシャンソン歌手なのでこの曲の原曲がシャンソンだと誤解されることが多いですが、実はこの曲はアメリカのカントリーミュージックです。しかもその歌詞は「どれほど多くの腕がお前を抱いたのだろう?どれほど多くの唇がお前に口づけをしたのだろう?いったいどれほどの・・・」というように、嫉妬に焦がれる男の気持ちを、かなりきわどい直接的な表現で歌っているわけです。
ところが、なかにし礼の訳詞ではそれが「あなたの過去など知りたくないの」という、日本人にも受け入れられるお行儀のよい上品な表現で、いわばフィルターが掛かっているのです。そこがこの訳詞の素晴らしさだと思います。「時には娼婦のように」というようなみだらな詞も書くなかにし礼ですが、この曲では下品な表現をさっぱりと捨てています。
以前の日本語の歌の作詞作曲法では、言葉の一音節がメロディの一音に対応している場合が多かったですが、だんだんメロディに言葉が詰め込まれるようになって、メロディの一音に何音節も乗っている歌が多くなったと思います。そうなると音節自体も不明瞭になって、英語のように聞こえてしまうのではないでしょうか。
男一匹さん、こんにちは。
それは確かに言えます。その原因のひとつは歌の歌詞が「口語体」になったからでしょう。音節の多い口語体の歌詞に節をつけようとするとおっしゃるとおり「メロディに言葉が詰め込まれる」ようになってしまいます。それと、現代では作詞家と作曲家が「同一人物」であることが多い、というのがもうひとつの原因だと思われます。いわゆる「シンガーソングライター」と言われる人々です。彼らの場合、歌詞とメロディを「同時」に作っていきますから、より自由に歌詞を操ることが可能です。いわゆる「字余りソング」が作られる所以でしょう。その元祖が「よしだたくろう」です。
次の歌詞を見てください。
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「わかって下さい」 作詞・作曲 因幡 晃
貴方の愛した 人の名前は
あの夏の日と共に 忘れたでしょう
いつも言われた 二人の影には
愛がみえると
忘れたつもりでも 思い出すのは
町で貴方に似た 人を見かけると
ふりむいてしまう 悲しいけれど
そこには愛は見えない
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「酒と泪と男と女」 作詞・作曲 河島英五
歌詞忘れてしまいたい事や
どうしようもない寂しさに
包まれた時に男は酒を飲むのでしょう
飲んで 飲んで 飲まれて飲んで
飲んで 飲み潰れて寝むるまで飲んで
やがて男は静かに寝むるのでしょう
忘れてしまいたい事や
どうしようもない悲しさに
包まれた時に女は 泪みせるのでしょう
泣いて 泣いて 一人泣いて
泣いて 泣きつかれて寝むるまで泣いて
やがて女は静かに寝むるのでしょう
又ひとつ女の方が偉く思えてきた
又ひとつ男のずるさが見えてきた
おれは男 泣きとおすなんて出来ないよ
今夜も酒を煽って寝むってしまうのさ
おれは男 泪見みせられないもの
飲んで 飲んで 飲まれて飲んで
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どちらの曲にも、巧妙に「歌詞が詰め込まれた」箇所があります。「ふりむいてしまう 悲しいけれどそこには愛は見えない」という部分と、「又ひとつ女の方が偉く思えてきた」という部分です。これなどはシンガーソングライターでなくては為しえ無い「芸当」でしょう。どちらも私が大好きな歌です。
(外国の)曲に歌詞をつけると、そのようになることが多いのですよ。訳詞とはそれほど難しいのです。
ところで、横山ホットブラザースの「おまえはアホか」は鋸に関西弁を喋らせていますね。関係無いですが、ふと思い出してしまいました(笑)。