2009年07月19日

裁判員制度への素朴な疑問

今まで裁判員制度についてほとんど書いてこなかったが、私としては裁判員制度に関して極めて素朴な疑問がひとつだけある。それは「何故、凶悪犯罪のみなのか?」ということである。もし仮に私が裁判員に選ばれたとして、実際にやってみたいのは「政治家の汚職事件」である。あるいは森田健作の選挙違反である(検察はいったい何時になったら森田を起訴するのだ!)。もしくは二階俊博の西松献金事件である(検察はいったい何時になったら二階を起訴するのだ!)。これらの事件ならば私は喜んで裁判員を引き受けて「極刑」を下す積りでいる(笑)。しかし殺人事件の裁判に誰が関わりたいと思うだろう?

思うに冤罪死刑判決を垂れ流してきた裁判官が、自分の責任を一般市民に分散させて、精神的負担を減らしたいが為の「陰謀」なのではないのか?と私は勘ぐっている。

確かに過去においてとんでもない死刑判決を下してきた裁判官が無数にいる。下山事件、三鷹事件、松川事件、横浜事件・・・。横浜事件以外は新憲法下での冤罪事件である!こういうことを防ぐためにこそ裁判員制度は必要だと私は思う。しかし問題はこういった「思想犯罪」「政治犯罪」が裁判員制度の埒外であるということである。相変わらず政治犯は「国家権力」のみが裁くのである。当然政治犯の「冤罪」は野放しだ。たとえば選挙が近くなると日本の警察は共産党の活動家を「微罪」で逮捕し起訴する、という「お家芸」を持っている(国分寺ビラ弾圧事件、葛飾ビラ弾圧事件等)が、こういった事件にこそ裁判員を参加させるべきではないのか?

何でも裁判員に選ばれた国民は事前に面接を受けるのだという。つまり「死刑制度反対論者」は裁判員にはなれないのだ。「死刑はありうる、当然だ」という思想の国民のみが裁判員に選ばれるらしい。これって変じゃない?憲法で保障された思想信条の自由がまったく無視されている。そうでしょう?憲法違反だよコレ。

この裁判員制度に関する法律への疑問は、臓器移植法への疑問と似た感じがする。何処が似ているのか?そんなことをつらつら考えていたら「こういうことだ」と思い至った。つまり、裁判員制度は「被害者感情」に重きを置いた制度である。その証拠に裁判員裁判の法廷に「死体の写真」やVTRのような視覚的証拠を用いることを奨励していると聞く。つまり遺族の「希望」に沿った判決を、裁判員は下すように「誘導」されていることになる。ちなみに被害者遺族の感情を過大評価している限り、制度としての「死刑」は無くならないであろう。何故なら最愛の息子、娘、妻を殺した人間に対しては誰しも「殺してやりたい」と、思うだろうからだ。言っておくがそれが「冤罪」であるかなしかに拘わらず、である。臓器移植については同様に「何故、救えるかもしれない子ども(疑似被害者)に臓器を提供しないのだ!?」という無言の圧力を「正当化」するような法律に思えて仕方がない。

さらにこれらの法律に関しては情緒に走りやすいメディアがずいぶんと「旗振り役」を演じているようにも思えて仕方がない。

posted by takashi at 00:01 | Comment(4) | TrackBack(1) | 時事、政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
突然のコメント失礼致します。
失礼ながら、相互リンクしていただきたくて、コメントさせていただきました。
http://sirube-note.com/judge/

もしよろしければ、こちらのページから相互リンク登録していただけましたら幸いです。
http://sirube-note.com/judge/link/register/
今後ともよろしくお願い致します。
HOSp19RS
Posted by sirube at 2009年07月19日 01:37
sirube様、
貴サイトを拝見させていただきました。ちょっと違和感を感じましたので率直にお答えいたします。貴サイトは、ウェブ上からキーワードのみで情報を収集するだけの「ロボットブログ」とお見受けしました。私のポリシーとしては、自分の主張を生の声で発表しているごく普通のブログのうち、自分の考えに近いものをリンク対象とさせていただいております。残念ながら貴ブログはその対象とはなりえないのです。どうかお気を悪くなさらないで(無理かと思いますが)ください。たかし
Posted by たかし at 2009年07月19日 07:44
はじめましてdaimongと申します。たぶん阿修羅あたりからたどり着きました。

>思うに冤罪死刑判決を垂れ流してきた裁判官が、自分の責任を一般市民に分散させて、……
 私は別のことが気になります。裁判員制度の成り立ちについてです。私の記憶だと、あまりに長すぎる裁判への批判が司法改革の機運を生み(オウム事件など)それがいつのまにか裁判員制度へ帰着したというものです。問題が二つあります。
1.司法制度の問題がなぜ素人を裁判に放り込むことで解消されるのか
2.素人を裁判に放り込むと、なぜ裁判がこれほど迅速化できるのか。今度の裁判員のインタビューを見ると、中学校の生徒会の退任演説レベルです。つまり中学生並みの人が裁判をする。だったらプロの裁判官や弁護士ならもっと迅速確実に審理できるだろうになぜ出来なかった?

私の回答は、本当は迅速化と裁判員制度は無関係というものです。つまり、従来の観点から見れば裁判員制度による裁判は審理があまりにも不十分なままで判決を下しているに過ぎません。また逆にそれが十分というなら、今までの裁判はとてつもなく無駄が多かったということです。

>つまり、裁判員制度は「被害者感情」に重きを置いた制度である。

私は単に今の有罪率99.9%を守りたいだけだと思います。(池田信夫氏によると、アメリカ流の最初から有罪を認めた人を除くと無罪率は4%弱になるそうですが)

意見のみ書かせていただきました。乱文失礼。
Posted by daimong at 2009年08月08日 02:47
書き忘れですみません。

刑事裁判の改革には今民主党の出している取調べの透明化が不可欠で、本来こちらが先行すべきでした。簡単ですしね。こういう重大な問題のごまかしこそ、裁判員制度導入の本質と思います。

>さらにこれらの法律に関しては情緒に走りやすいメディアがずいぶんと「旗振り役」を演じているようにも思えて仕方がない。
 読売、サンケイはともかく朝日新聞が自民党に屈服する日が来るとはよもや思いませんでした。逆に言うと、これも時代の過渡期であり、固定観念に過ぎなかったのですね。
Posted by daimong at 2009年08月08日 02:53
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