「チャンネル桜」なるテレビ局がある、多分CS放送か何かだろう。これのコピーがYouTubeにゴチャマンとアップされている。わけのわからない「ゴロツキ評論家」や、見るからに「偏執狂」的なツラ構えをした怪しげな「学者」まで、薄気味の悪い連中がごろごろ出ている画像だ。東条英機に瓜二つのキチガイばばあも頻繁に出ている。YouTube上では、南京大虐殺をまじめに取り上げている画像を1とすると、おそらくその百倍くらいの「チャンネル桜」に代表される「ふざけた」画像が溢れ返っている。こんなものが氾濫しているYouTubeというものが、我々の祖国日本の恥を、一体どれほど世界に向けて晒すことに「貢献」しているかと思うと、私は怒りを通り越して悲しくなってくるのだ。
ただ不幸中の幸いと言えるのは、おおかた日本語だということである。これだけは全くありがたいことに、英語や中国語でアップしているものは殆どない(全然ないわけではないが)。世のネトウヨどもに、語学のスペシャリストがいないことはせめてもの救いだ。もっともコメント欄のほうには日本人と思われる恥ずかしい「カタコト」の書き込みが相当数見られるようだ(つまり南京大虐殺をまじめに取り上げている画像のコメント欄という意味、そのほとんどは海外からの画像である)。奴らのうちの誰かが「英訳」字幕付きの「チャンネル桜」をアップするのももはや時間の問題かもしれない。そうなったらもう、この日本は終わりだ。
それにしても思い出されるのは、あのワシントンポストに出した自民党どもの「恥さらし広告」だ。ああいうものの「打撃」は計り知れないものがある。ありとあらゆる善意の人々の苦労と努力を、ほんの一瞬で台無しにしてしまうものだからだ。世界に恥を晒すという行為は、恥を晒した個人一人に跳ね返ってくるわけではない。日本人全体に戻ってくるということを忘れるべきではない。
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http://www.mofa.go.jp/MOFAJ/area/taisen/qa/08.html
あと補足ですが、南京犠牲者30万人説を最初に言い出したのは国民党政府(1946年2月国民党首都(南京)地方院主席検察官の陳光虞による「国民党首都地方院検察処が命令に従い敵侵略者の犯罪行為について調査した報告書」
)です。
しかも、30万人というのは国民党が示した数字(三〇万人、三四万人、四〇万人、五〇万人)の中で一番少ない数です。
でもなぜかこのことに関して台湾を叩いているネトウヨは余り見たことがありません。
私の文章をどうか正確にお読みください。
>南京大虐殺・従軍慰安婦に代表される戦前・戦中の日本の国家犯罪を、日本政府が正式に認め謝罪していない
@正式に認め(公文書で)
A謝罪している(公文書で)
例があればどうかお示し願います。
話は変わりますが、去年台湾の立法院で従軍慰安婦に関して日本に謝罪を要求する決議(決議案は超党派の立法委員達が提出、民進党の議員もいます)が採択されましたね。
http://www.47news.jp/CN/200811/CN2008111101000463.html
台湾に対するネトウヨの姿勢が変わっていないのが不思議でなりません。
afskさん、当ブログの掲示板へお書き込みになるのは構いませんが、出来れば過去ログを一通りお読み願えないでしょうか。よろしくお願いします。
参考スレッド
<たかしちゃん語録>
http://takashichan.seesaa.net/article/105501961.html
<たかしちゃん語録その2>
http://takashichan.seesaa.net/article/105833288.html
<「村山談話」と「荒れ野の40年」>
http://takashichan.seesaa.net/article/109003556.html
<拉致問題についての私の見解>
http://takashichan.seesaa.net/article/121013508.html
>>たかしさん
>これのコピーがYouTubeにゴチャマンとアップされている。わけのわからない「ゴロツキ評論家」や、見るからに「偏執狂」的なツラ構えをした怪しげな「学者」まで、薄気味の悪い連中がごろごろ出ている画像だ。
表示されている再生回数を見る限り、どれも観ている人は極めて少数です。
あれをアップする連中は、その思惑とは逆に、ああいった主張が我が国の人々からほとんど支持されていないということを示す格好の客観的データを提供してくれているというわけです。
聞くところによれば、深刻な経営難で、存続自体危ういとか。そりゃそうですわな。
アクセスが少ないのは、日本語でしか検索できないからです。これがもし英語でアップされたらそんな悠長なことは言ってられなくなりますよ。
教えたらあかんがな〜!(笑)
正直、私はそんなの見ると具合が悪くなるので一切見ていません。
(本エントリとは無関係です。ごめんなさい。)
私もかつては本多勝一さんの著作に熱中し大いに影響を受けたのですが、80年代後半の社会主義国の破綻に際して本多氏から総括が無かったことに失望し、現在では本多氏をむしろ不誠実な、偏った人物と考えるに至っています。
本多氏がそれまで大いに評価していた社会主義の破綻に対して沈黙していることについて、たかしさんはどうお感じになられているのか伺えたらと思います。
また本多氏は自著をこっそり書き換え、印象操作を行うという不誠実なこともやっていますが、この点についてもたかしさんの考えを伺えたら幸いです。
>私もかつては本多勝一さんの著作に熱中し大いに影響を受けたのですが、80年代後半の社会主義国の破綻に際して本多氏から総括が無かったことに失望し、現在では本多氏をむしろ不誠実な、偏った人物と考えるに至っています。
何故「社会主義国の崩壊」に際し本多勝一氏が「総括」をしなければならないのですか?その根拠をお示し願います。
>本多氏がそれまで大いに評価していた社会主義の破綻に対して沈黙していることについて、たかしさんはどうお感じになられているのか伺えたらと思います。
本多勝一氏が「(所謂社会主義国を)大いに評価していた」著書と、そのページをお示し願います。
>また本多氏は自著をこっそり書き換え、印象操作を行うという不誠実なこともやっていますが、この点についてもたかしさんの考えを伺えたら幸いです。
本多勝一氏が「自著をこっそり書き換え、印象操作を行」なっている個所をお示し願います。
早速のご返答有難うございます。
>何故「社会主義国の崩壊」に際し本多勝一氏が「総括」をしなければならないのですか?
それまで社会主義を大いに評価してきたので、その破綻に対して総括があって然るべきだと思うからです。
>本多勝一氏が「(所謂社会主義国を)大いに評価していた」著書と、そのページをお示し願います。
例えば、『貧困なる精神第3集』初版1975年7月10日
「欧米人記者のアジアを見る眼」
「このような特殊都市に住むカンボジア人は、例外的な金持ちと特権階級にすぎない。サイゴンやハノイとは本質的に異った性格の都市なのだ。東京や大阪の中心部が、外国人の金持ちだけで占められ、日本人は例外的成金と、外国人のもとで女中や門番として使われる者だけ、といった都市だったら、どういうことになるだろう。こんな危険な都市は、反革命の拠点にいつなるかわからない。そのため、搾取のない農村経済のもと、みんなが正しい意味で働きながら、まず自給を確立することから自立しようと考えたとしても、まことに自然なことではないか。合州国の退廃文化(帝国主義文化)でダラクさせられた都市の人々も、それによって健全なものに立ちなおるだろう。」
>本多勝一氏が「自著をこっそり書き換え、印象操作を行」なっている個所をお示し願います
例えば、『潮』1975年10月号「カンボジア革命の一側面」
「例によってアメリカが宣伝した「共産主義者【赤色クメールを指す】による大虐殺」などは全くウソだった」
『貧困なる精神4集』第9刷増刷(1990年3月10日発行)「カンボジア革命の一側面」
上記部分は削除の上
「アメリカが宣伝した「共産主義者による大虐殺」によって全市民がただちに虐殺されたとも思われぬが、すべては鎖国状態の中にあっては事実そのものが全くわからず、噂や一方的宣伝ばかりでは軽々に論じられない。」
と書き換えです。
端的に伺いますが、たかしさんは、本多氏が特に社会主義を評価していたとはお考えにならないんですね?
チェーカーさん、分かりました。私の見解を申し上げます。
>それまで社会主義を大いに評価してきたので、その破綻に対して総括があって然るべきだと思うからです。
私が本多氏の著作を読んだ印象では、本多氏は「社会主義の理念」を大いに評価していると思っております。ただし個々の所謂「社会主義国」を、手放しで評価していたことはないと思います。本多氏には、ソ連や東欧を訪れた際のルポルタージュがいくつかあったと思いますが、その中で既存の「社会主義国」に、自由(特に言論の自由)がないことを、むしろ大いに嘆いていたのを私はよく覚えております。確か彼は、自分の中の社会主義の理念と現実の「社会主義国」との乖離を「はず社会主義」という言葉で表していたように記憶しています。つまり社会主義の「理念」について彼は大いに評価をしているけれども、個々の現実の「社会主義国」についてはむしろ懐疑的です。たとえば「医療費の無料」については評価するけれども、何より重要な「自由」の面でソビエト社会をはっきりと批判する、といった具合です。同様の主張は他の部分でも見られ「しんぶん赤旗」上でのインタビューにおいても言論の自由の保障について、既存の社会主義国と日本共産党を比較した上で問いただしていたのを覚えています。
もうお分かりのこととは思いますが「破綻」したのは「社会主義」ではなく、既存の「社会主義国」です。それらの社会主義国について本多氏は批判を行なっておりました。したがって本多氏には何ら「総括」の必要はないものと思われます。
>例えば、『貧困なる精神第3集』初版1975年7月10日
「欧米人記者のアジアを見る眼」
「このような特殊都市に住むカンボジア人は、例外的な金持ちと特権階級にすぎない。サイゴンやハノイとは本質的に異った性格の都市なのだ。東京や大阪の中心部が、外国人の金持ちだけで占められ、日本人は例外的成金と、外国人のもとで女中や門番として使われる者だけ、といった都市だったら、どういうことになるだろう。こんな危険な都市は、反革命の拠点にいつなるかわからない。そのため、搾取のない農村経済のもと、みんなが正しい意味で働きながら、まず自給を確立することから自立しようと考えたとしても、まことに自然なことではないか。合州国の退廃文化(帝国主義文化)でダラクさせられた都市の人々も、それによって健全なものに立ちなおるだろう。」
一体この文章のどこが「(所謂社会主義国を)大いに評価してい」るのかが、まず分からないのですが、もしかして「搾取のない農村経済のもと、みんなが正しい意味で働きながら、まず自給を確立することから自立しようと考えた」の部分あたりがそうなのでしょうか?これがまさに本多氏の「はず社会主義」を披歴した部分だと思います。「搾取のない(農村)経済のもと、みんなが正しい意味で働きながら、まず自給を確立する」のは社会主義の理念ですから。
>例えば、『潮』1975年10月号「カンボジア革命の一側面」
「例によってアメリカが宣伝した「共産主義者【赤色クメールを指す】による大虐殺」などは全くウソだった」
『貧困なる精神4集』第9刷増刷(1990年3月10日発行)「カンボジア革命の一側面」
上記部分は削除の上「アメリカが宣伝した「共産主義者による大虐殺」によって全市民がただちに虐殺されたとも思われぬが、すべては鎖国状態の中にあっては事実そのものが全くわからず、噂や一方的宣伝ばかりでは軽々に論じられない。」と書き換えです。
本多氏の著書では、版を重ねるごとに内容の推敲がよく行なわれます。本多氏の文章はたとえば、まず新聞または雑誌に連載で掲載され、次に単行本として刊行され、さらに文庫本として出版されるという経過をとることが一番多いようです。その経過のそれぞれの段階で、時には増刷の機会でも本多氏は文章に磨きをかけているようです。また事実として新たに判明したことについては「時系列」を崩すことなく「脚注」を設けて解説しています。初版の時点では知られていなかった事実を後から「判明」したことと分かるように書いています。また、取材の対象が、当初取材したときの有様から変節してしまったような場合、その事実ももちろん隠したりはしていません(例として「ヤマギシ会」)。そしてこれが自分の「方法論」であることもどこかに明記していたと記憶しています。
さてあなたが示した上記の「書き換え」についてですが、この「時系列」によれば最初の文章が書かれた1975年10月以前では現に「虐殺」は起こっておりませんでした。『貧困なる精神4集』第9刷増刷では、「虐殺」も含めて当初明らかになっていなかったことを「脚注」として記しています。
ところで私も少し「楽」をさせていただくことにします。チェーカーさんが今回提起なされた問題についてはTAKAOKU1420氏がもう既に完璧な「反論」をなさっております。そこでそのURLを書いておきますので、よくお読みください。
http://www1.odn.ne.jp/kumasanhouse/movement/sinbun_yomitai/peten01.html
>端的に伺いますが、たかしさんは、本多氏が特に社会主義を評価していたとはお考えにならないんですね?
私は今でも本多氏は社会主義を評価なさっていると思いますよ。
チェーカーさん、
私の部屋には本多氏の著書がたくさんあります。私はそれらを読んだ記憶を呼び覚ましながら文章を書いています。該当箇所を示すためにはそれらの本をすべてくくり直さなければいけないのです。あなたのように「本多勝一研究所」のウェブサイトから簡単にコピペするのとは訳が違うのですよ(笑)。
読者のみなさん、
チェーカーさんが私に投げかけてこられた質問の「出展」は、チェーカーさんが安直にコピペした以下の「検索文字」からすぐにわかりますので、ご覧になってください。検索ページの一番上に出てまいります。
『潮』1975年10月号「カンボジア革命の一側面」
『貧困なる精神第3集』初版1975年7月10日
『貧困なる精神4集』第9刷増刷(1990年3月10日発行)「カンボジア革命の一側面」
夜更けにもかかわらずご丁寧な返答に感謝します。
私が本多氏の著作を初めて読んだのは中学生の頃です。その論理明快さ、いつの間にか身に付けている常識的な価値への否定の姿勢などに新鮮なショックを受け夢中になりました。大学へ入ったら革命党派に身を投じようかと思っていたと言えばのめり込み具合が分かっていただけるでしょうか。
ところが、80年代後半からご存じのように社会主義国の崩壊が始まりました。私はアイデンティティ不安さえ感じました。本多氏がこの事態についてどんな見解を出されるのか固唾を飲んで待ちました。2年くらい待ったでしょうか。何もありませんでした。私は本多氏の無責任さ卑劣さに怒りを感じつつ彼を見限りました。
本多勝一を精読したと自称される方に出会ったのはリアルではもちろんネット上でも初めてだったので「あの時本多さんダンマリだったの酷いよね」とどうしても聞いてみたくなって今回書き込みさせていただいた次第です。ご指摘の通り私の上記の引用は本多勝一研究会のサイトからのコピペです。現在手元に本多氏の著作は置いていないのでそうさせて頂きました。
>「破綻」したのは「社会主義」ではなく、既存の「社会主義国」です。それらの社会主義国について本多氏は批判を行なっておりました。したがって本多氏には何ら「総括」の必要はないものと思われます。
ご自分で本当にこれで納得されますか?
大東亜共栄圏という理念は正しかったが現実の運用で誤りがあったという見解とどう違いますか?
理想的な「理念」が現実の形を取ったとき想像もつかない抑圧、虐殺国家になってしまった。この事態に際して、いや理念は悪くない失敗したのは現実の方だ、自分は理念を評価しただけだ。。。
それで済ませる本多氏を無責任とか思わないのですね?
本多氏の高く評価する社会主義の名において、強制収容所が秘密警察が作られ、家族で監視密告し合う社会が作られ「反革命分子」が虐殺され、国内においては総括リンチ事件中核革マル戦争が起きても、相変わらず社会主義の理念は正しいんですね?本多氏は社会主義国の表現の自由の無さを批判してたから責任がないと考えるんですね?
チェーカーさん、本多氏の著書に「のめり込んで」おられたとのこと、同好の士にお目にかかったようで何だかうれしく思います。どうやら「あの時本多さんダンマリだったの酷いよね」というのがあなたの本多氏への「憎悪」の中身のようですね。本多さんは当時の社会主義国の「誤り」を鋭く指摘していたことを私は上で述べました。このことについてはあなたも理解して頂けるのですね?私も当時、ソ連型の社会主義が間違った制度であることを「確信」致しておりましたので、ソ連崩壊には何の感慨もありませんでしたし、ドイツの統一もまさに喜ぶべき出来事と歓迎しました。そしてこれらのことをむしろ歴史の必然とすら思っておりました。
さて、あなたが本多勝一にのめり込んでおられた時の気持ちというのは純粋なものだったろうと、私は感じ取ることが出来ます。そののめり込みようが強かっただけにショックが大きかったのですね?ただし、そのショックというのは既に私が述べた通り「誤解」です。
チェーカーさん、私には分かります。あなたがウェブ上に巣食う低俗なネトウヨの一味ではないということが。それどころか善悪の分かる、真面目で常識を持った方であることが、お書きになる文章から伝わって参ります。
そこでチェーカーさん、私に提案があります。本多さんの古い著書をもう一度読んでみていただけないでしょうか?一度は感動したその時を、もう一度味わって下さい。必ず新しい発見があると思いますよ。多分あなたが揺れる気持ちで出会った「本多勝一研究会」なぞという悪意に満ちた連中のことが馬鹿馬鹿しく思えるようになると思います。青春のただ中で出会った本多氏の著書には真実の力があると、私は確信します。
「ご自分で本当にこれで納得されますか?」・・・以下のあなたの質問にはお答えいたしません。何故ならそれらは最初のあなたの質問を別の言葉に置き換えただけの「再質問」だからです。大東亜共栄圏を持ち出すのはおやめになることです。「理念」そのものが間違いだからです。ネトウヨが弄する「詭弁」を真似て本多氏を「無責任」呼ばわりするのではなく、虚心坦懐に本多勝一を読み直してみて下さい。宜しくお願いします。
>本多さんは当時の社会主義国の「誤り」を鋭く指摘していたことを私は上で述べました。このことについてはあなたも理解して頂けるのですね?
手元に著書がないので引用出来ないのがもどかしいのですが、本多氏は確かに社会主義国の問題点を指摘することもあったものの、彼の言論活動を総体的に見れば、社会主義国に大いに期待をかけ肩入れしていたというのは動かし難い印象です。
本多氏が現行社会主義国を「問題はあっても本質的には肯定していた」のか「社会主義理念とは縁も所縁もないと否定していた」のか、明らかだと思います。
さらに、本多氏の批判自体もとても「鋭」いといえるものではありませんでした。
ある理想理念が正しいとするなら、自分達はそれを具現化すると思いこんでいる人々にとって「理念は良いのだが言論の自由がちょっと・・・」などといった批判は不徹底な日和見主義に過ぎないと感じられるからです。自分たちが実現しようとしてる理念が正しいならば、それを批判する言論を許すなど単に人心をかく乱するだけの全く不必要なことに過ぎません。「理念は正しいと思うけど」という人からの批判は単なる程度問題と扱われます。これは、原理的なことです。
>私も当時、ソ連型の社会主義が間違った制度であることを「確信」致しておりましたので、ソ連崩壊には何の感慨もありませんでしたし、ドイツの統一もまさに喜ぶべき出来事と歓迎しました。
私は不思議に思うのですが、
社会主義国が総破産したような状況になり、内実の無残さがあらわになってもなお社会主義の理念自体は正しいとするなら、いったい理念の正しさはどこでどう確かめられるのでしょう?
何故に本多氏は社会主義の理念は正しいと考え続け、そんな本多氏を何故にたかしさんは肯定されるのでしょう?
現実の社会主義国の失敗は、そもそも社会主義「理念」に問題があったからかもしれないとは微塵もお考えになったことはありませんか?
あるいは、社会主義に限らずそもそも何らかの理想社会という理念を現実にもたらそうとすれば、大きな矛盾・悲惨を生むのかもしれないとは考えたことはありませんか?
>大東亜共栄圏を持ち出すのはおやめになることです。「理念」そのものが間違いだからです。
かつて兵としてアジア各地に赴き残虐行為に手を染め無残な死を遂げた先人たちの中には、大東亜共栄圏の理想理念を本気で正しいと信じ込んでいた人たちもいました。この戦争に負けては日本の独立が危ういしアジアの植民地も解放されないと本心から信じて疑わなかった人たちがいたのです。
どんなに強く確信しても、それは理念の正しさを何ら保証しないというのが戦争世代が掴んだ痛切な経験でしょう。
本多氏のジャーナリズム活動は、現実の諸矛盾の根本原因を資本主義にあると捉え、その矛盾を克服しうる体制として社会主義に期待をかけるという「背骨」を持っていたと考えます。社会主義の破綻は、本多氏のこの背骨をへし折るような、あるいは大いに揺さぶるものではあるはずです。この事態に際して総括を行おうとしない本多氏の著作を読み返すのは、難しいです。戦時中は国家に誑かされたと憤慨した元軍国少年が、戦後は日の丸を見るのも嫌だとか言うのに似てるでしょうか。
初めまして。ご意見を拝読して、いくつか不明確な点があるので質問させて頂きたく思います。
@
>私が本多氏の著作を初めて読んだのは中学生の頃です。その論理明快さ、いつの間にか身に付けている常識的な価値への否定の姿勢などに新鮮なショックを受け夢中になりました。大学へ入ったら革命党派に身を投じようかと思っていたと言えばのめり込み具合が分かっていただけるでしょうか。
私は本多氏の著作をいくつか読んだ程度にすぎませんが、「大学へ入ったら革命党派に身を投じよう」などとは全く思いもしませんでした。私の周囲の人もそんなことは考えていなかったように思いますし、たかしさんもおそらく「革命党派」などに属したことすらないと思います。それ以上に、当の本多氏自身が、「革命党派に身を投じ」ていないわけでして。
いったい、本多氏の著作のどこをそのように読んで、「革命党派に身を投じよう」とお思いになったのか、その思考過程を教えて頂きたく思います。
A
>現実の社会主義国の失敗は、そもそも社会主義「理念」に問題があったからかもしれないとは微塵もお考えになったことはありませんか?
>あるいは、社会主義に限らずそもそも何らかの理想社会という理念を現実にもたらそうとすれば、大きな矛盾・悲惨を生むのかもしれないとは考えたことはありませんか?
とおっしゃいますが、資本主義という「理想」は「大きな矛盾・悲惨」を生まない、あるいは生まなかった、という認識ということですか?
B「社会主義国の総破産」「現実の社会主義国の失敗」という表現から、一読する限り、「社会主義」と「共産主義」の混同が見られるように思いますが、「社会主義」と「共産主義」との差異は何ですか?
Cマルクスが「共産主義国」として想定としていたのは、どのような国家でしたか?
D
>ある理想理念が正しいとするなら、自分達はそれを具現化すると思いこんでいる人々にとって「理念は良いのだが言論の自由がちょっと・・・」などといった批判は不徹底な日和見主義に過ぎないと感じられるからです。
本多氏はソ連における言論の自由の現状を終始厳しく批判していたのであり、「言論の自由がちょっと・・・」という生易しいものではなかったように見受けられます。
しかも、批判のたびに「理念はいいのだが」との留保などつけていた記憶はありません。「理念」自体を手放しで評価していた記憶もありません。
どこをどのように読めば、そのような形容が可能なのか、具体的に説明して下さい。
E
>自分たちが実現しようとしてる理念が正しいならば、それを批判する言論を許すなど単に人心をかく乱するだけの全く不必要なことに過ぎません。
少なくとも、私は、「自分が実現しようとする理念を批判する言論」について、「単に人心をかく乱するだけの全く不必要なことに過ぎない」とは断じて思いません。それは、人の批判に耳を貸さず、全ての議論を無意味なものととらえる態度であり、狂信者の思考です。チェーカーさんは、ご自身がこうありたいという「理念」についてもあてはまるとおっしゃいますか?
F「資本主義」と「社会主義」とはどのような関係にありますか?
>本多氏のジャーナリズム活動は、現実の諸矛盾の根本原因を資本主義にあると捉え、その矛盾を克服しうる体制として社会主義に期待をかけるという「背骨」を持っていたと考えます。社会主義の破綻は、本多氏のこの背骨をへし折るような、あるいは大いに揺さぶるものではあるはずです。
このコメントには、二重の誤謬があるように思います。
第一に、本多氏のジャーナリズム活動の対象は実に多岐にわたり、その「背骨」が「社会主義体制への期待」などというごく限定された矮小な点にあったとはどうしても読みとれないのです。「日本環境報告」「カナダ・エスキモー」「アイヌ民族」等をお読みになれば一目瞭然です。彼は、そこで「この問題を解決するには社会主義だ」などと短絡したでしょうか。彼は、いかなる体制であれ、個人の尊厳を脅かしうるものだと捉えているのです。
第二に、彼が「社会主義に対する期待」を有していたとしても、彼のソ連等に対する批判的態度からも分かるように、彼の考える「社会主義」と、現実の「社会主義国家」の推し進める「社会主義」とは、似て非なるものです。「世界基督教統一神霊協会」が全くキリスト教ではないこと、「朝鮮民主主義人民共和国」が社会主義国でも共産主義国でもないことと同様です。
したがって、旧ソ連や東欧諸国の破綻が、彼の「背骨」とは無関係です。
変わったHNだなぁと思ってちょっと調べさせてもらいました(失礼!)、
「チェーカーとは、レーニンが作ったソ連で初めての秘密警察の通称」とありました。
よく御存知でしたね。それだけです。
・・・どうぞ、お話を続けて下さい。
わしも、本多勝一読んで「革命党派に身を投じよう」なんぞ思わんかったのねんのねん(ケケケ
クエックエックエ〜!
下手な英語云々以前に内容が逝っちゃってるwww
>>バカウヨヲチャーさん
そうですね。
チェーカーさんがその思考の過程を開示して下さるのを待つとしましょう。
チェーカーさん、
私がご返事しあぐねている間にmebarunさんが、私の申し上げたいことを殆ど全て代弁して下さいました。「二重の誤謬」についても私が申し上げたかったことそのままです。本多氏の仕事をどう読めば「本多氏のジャーナリズム活動は、現実の諸矛盾の根本原因を資本主義にあると捉え、その矛盾を克服しうる体制として社会主義に期待をかけるという『背骨』を持っていた」と言えるのか、私には理解できません。少なくとも私はそのように思った記憶がないのです。彼の主要テーマはmebarunさんが言うとおり、少数民族(アイヌ、イヌイット、パプアニューギニア人他)、自然環境問題、もっと細かくは登山リーダーの資質の問題、金属バット殺人事件など社会問題と、多岐に上っており、あなたが言うようにことさら「社会主義」ではなかったと思っています。
むしろ本多ジャーナリズムをそのように解釈なさるに至ったあなたの思考過程を、私は興味深く思います。ですからこの際mebarunさんの質問に対する、あなたのお答えを伺ったうえで今後更に、あなたとお話をしてみたいのです。本多勝一に「傾倒」している私と比べ、mebarunさんやバカウヨヲチャー2 さんは、少なくとも、より「批判的」もしくは「中立的」な目で本多氏を見て来ています。そのような立場から発せられたmebarunさんのあなたへの「質問」は、貴重です。
チェーカーさん、かつてあなたと同じように「本多ファン」だった方が当ブログに投稿されてきたことがあります。その時も私は、その人の書き込みが「嬉しくて」いろいろと自説を書き並べて彼を困惑させてしまいました。そのページを探そうとしてみましたが、今眠いので見つけられません。いずれ探し出せたらご紹介します。
同様にチェーカーさん、かつて「本多ファン」であられたというあなたに、私はそれだけで「共感」を覚えます。そんな私は「客観的」な見方が出来ないのかも知れません。だとすればmebarunさんの「質問」に対してあなたがどのような回答をなさるのかがあなたの「本多勝一観」そのものだと思います。どうかmebarunさんの質問にお答え願います。
Mebarunさん たかしさん
@
>本多氏の著作のどこをそのように読んで、「革命党派に身を投じよう」とお思いになったのか、その思考過程を教えて頂きたく思います。
本多氏は戦争・差別といった諸矛盾の根本原因を資本主義にあると捉えていました。たとえば、彼は「あらゆる差別の真の原因は経済にある」旨語っています。「現実が(経済的諸関係が)意識を規定する」ですね。
そして彼は殺される人、抑圧される人がいるとき、傍観し、あるいは無関心でいることは現状維持を選択することであって、それは殺す側、抑圧する側に結果的に加担することに他ならないと主張していました。敵になるのか味方になるのか。曖昧な中間派を認めず、態度決定を迫るわけです。
このように彼の主張は読者に現状変革に立ち上がることを強く要請するものでした。
ところで「私の周囲の人もそんなことは考えていなかったように思います」とのことですが、mebarunさんの周囲には本多勝一の愛読者がたくさんいたということですか?mebarunさんはおいくつですか?
A
>資本主義という「理想」は「大きな矛盾・悲惨」を生まない、あるいは生まなかった、という認識ということですか?
資本主義は自生的なもので、理想ではないです。
B
>「社会主義」と「共産主義」との差異は何ですか?
私的所有がまだ残っているか完全になくなったか。
C
>マルクスが「共産主義国」として想定としていたのは、どのような国家でしたか?
マルクスは共産主義「国」を想定していません。
D
>本多氏はソ連における言論の自由の現状を終始厳しく批判していたのであり、「言論の自由がちょっと・・・」という生易しいものではなかったように見受けられます。・・・どこをどのように読めば、そのような形容が可能なのか、具体的に説明して下さい。
社会主義国に対して独裁でも粛清でも強制収容所でもなく、言論の自由がないのが問題などと言ってる時点でそう言えるでしょう。
E
>私は、「自分が実現しようとする理念を批判する言論」について、「単に人心をかく乱するだけの全く不必要なことに過ぎない」とは断じて思いません。・・・チェーカーさんは、ご自身がこうありたいという「理念」についてもあてはまるとおっしゃいますか?
自分達が実現しようとしてるのは理想社会という理念の実現だと思い込んでる人々は、自由な言論など必要とは考えないだろうという話なので、自分がこうありたいという理念の話ではないです。
F
>「資本主義」と「社会主義」とはどのような関係にありますか?
基本的に相容れない関係。
第一
>本多氏のジャーナリズム活動の・・・「背骨」が「社会主義体制への期待」などというごく限定された矮小な点にあったとはどうしても読みとれないのです。
民俗学的なルポではなく、政治的テーマを扱ったルポや彼が自分の主張をストレートに語る(昔の版の)政治論評をお読みになっても、そう思えないですか?
>彼の主要テーマはmebarunさんが言うとおり、少数民族、自然環境問題・・・社会問題と、多岐に上っており、あなたが言うようにことさら「社会主義」ではなかったと思っています。
サッカーに格闘技にアニメに社会問題。テーマが多岐なのは「ネトウヨ」も同じでしょう。
三島由紀夫は恋愛小説も書き、歴史小説も書き、軽いエッセイもたくさん書き、ボディビルもやっていたのだから、ことさら右翼民族主義者と捉えることには納得できませんか?
>彼は、いかなる体制であれ、個人の尊厳を脅かしうるものだと捉えているのです
東西冷戦(アジアでは熱戦)の最中、本当に彼はこのように中立に人々を誘うような、あるいはポストモダニストまがいの、評論家然としたことを言っていましたか?
アメリカもダメだが北ベトナムも同様にダメだと言っていましたか?
帝国主義を批判するときと同様なあるいはそれ以上の激烈さと執拗さで、ソ連中国ベトナム等を否定していましたか?
第二
>彼の考える「社会主義」と、現実の「社会主義国家」の推し進める「社会主義」とは、似て非なるものです
彼の考える社会主義とはどういうもので、それは現実の社会主義とはどう違い、それはどのように実現されると考えていたのか。そして彼はどこでそれを明らかにしているか是非教えて下さい
正統派?のキリスト教は同じに扱われちゃかなわんという勢いで、執拗に統一教会批判を繰り返すのに、本多氏が繰り返すのはなぜ自分の考えるものとは「似て非なる」社会主義国の見解の垂れ流しや側面支援なのか、是非説明して下さい。
彼は文革の凄惨な内実が明らかとなった後にも「理念には今でも賛成だ」と言い放っていました。
ポルポト派の暴虐が漏れ伝わり始めたころ何を根拠にか有り得ないデマだと否定していました(その時点では強制移住させただけで実際まだ殺してなかったから間違いではない、などと呆れた弁護をする人もいました)。
少数民族・言語の尊重やら各共和国の独立の自由やら周辺国とは相手側の主張を十分取り入れた上での不可侵条約の締結やら今思えば白々しい社会主義国の政策スローガンを真に受けて大いに感心してみせていました。
レーニン、毛沢東、ホーチミンといった独裁者達を称賛していたのも覚えています(「マオ」の感想を聞いてみたいですね)。
彼の考える社会主義が現実の社会主義と「似て非なる」ものなら、なぜ彼は繰り返しあちこちで現実の社会主義に肯定的な発言を行うのでしょう?
本多氏がマルクス・レーニン主義を真理だと考え、現実の社会主義国が(問題を抱えながらも)それを実現しようとしていると考えていたからなのではありませんか?
本多氏は日帝や米帝の犠牲者に同情してみせる前に、社会主義国の強制収容所で朽ち果てた人民に許しを乞うべきではありませんか?
>>チェーカーさん
>本多氏は戦争・差別といった諸矛盾の根本原因を資本主義にあると捉えていました。たとえば、彼は「あらゆる差別の真の原因は経済にある」旨語っています。「現実が(経済的諸関係が)意識を規定する」ですね。
「経済」=「資本主義」という読み方をして初めて成り立つ捉え方ですね。
しかし、両者はイコールではありません。
いかなる政治体制であっても、「経済」は存在します。彼が、「資本主義をやめて社会主義にすれば差別がなくなる」などといつ言ったのか、教えて下さい。
>そして彼は殺される人、抑圧される人がいるとき、傍観し、あるいは無関心でいることは現状維持を選択することであって、それは殺す側、抑圧する側に結果的に加担することに他ならないと主張していました。敵になるのか味方になるのか。曖昧な中間派を認めず、態度決定を迫るわけです。
「態度決定」=「革命党に身を投じる」という読み方をして初めて成り立つ捉え方ですね。
「殺される人、抑圧される人がいるとき、」は、「革命党に身を投じるべし」ということになるはずがありませんね。
「現状変革」=「革命党に身を投じる」というテーゼが決して成り立ち得ないことも、また同じです。
チェーカーさんは、抑圧する側とされる側とが存在するときに、ご自身は「曖昧な中間派」に立つという考え方ということでよろしいでしょうか。
私は、幼少期にいじめを経験しました。その時に、「中間派」を決め込む周囲の傍観・無関心というものがいかに恐ろしいか、身にしみています。「中間派」などというものがただの保身のための欺瞞で、結局は抑圧する側に立つことにほかならない、という認識が刷り込まれています。そのような考え方が「革命党派」的だ、とするのは、極めて短絡的で、全くもって筋違いなレッテルだとしか言いようがありません。
>ところで「私の周囲の人もそんなことは考えていなかったように思います」とのことですが、mebarunさんの周囲には本多勝一の愛読者がたくさんいたということですか?mebarunさんはおいくつですか?
私の年齢など聞いてどうなるというのか不思議ですが(笑)。
いわゆる「アラサー」とだけ言っておきます。
少なくとも、私の周囲では、「愛読者」とは言わないまでも、一種の作法、お約束として読んでいる者がけっこういました(多数派ではありませんでしたが)。しかし、一人たりとも、いわゆる「革命党派」などに属した者はいません。
「高校生ならある程度は読んでおくべし」というくらいの認識でした。決して本多勝一ファンの教師がいたわけでもなく、あくまで一種の通過儀礼のようなものです。図書館には必ず朝日文庫のシリーズが置いてありますし。
といっても、私の高校・大学時代の友人・知人レベルに限られますので、だいぶ偏った人的構成においてですが。
特に、「日本語の作文技術」は、大学受験等の論述式問題や小論文等のために必読の書とされていました。
>>資本主義という「理想」は「大きな矛盾・悲惨」を生まない、あるいは生まなかった、という認識ということですか?
>資本主義は自生的なもので、理想ではないです。
「○○主義」は、「主義」である以上、「自生的」なものではありえません。逆に言えば、「自生的」なものは、当然に存在するものであるから、「主義」などを謳う必要はありません。その認識は明白な誤り、思い込みであると言えます。
アダム・スミスの「諸国民の富」をお読み下さい。そこに現れた考え方こそが、基本的には、産業革命を推進するイデオロギーとなりました。歴史的事実として、ヨーロッパ諸国は、「自由放任」等を内容とする「資本主義」というイデオロギーに国家を放り込んだのです(「資本主義」という呼び方自体は、後でマルクスが名づけたもののようですが)。
その結果、どのような信じがたい目を覆うような惨状が繰り広げられたかということは、エンゲルスの「イギリスにおける労働者階級の状態」あたりに詳しいです。それをお読みになってなお、「資本主義は自生的なもので」などと言えるのか、どうかお試しください。
B
>>「社会主義」と「共産主義」との差異は何ですか?
>私的所有がまだ残っているか完全になくなったか。
それは、誤解に基づくものです。そもそも、共産主義は、私有財産を完全に否定するものではありません。
C
>>マルクスが「共産主義国」として想定としていたのは、どのような国家でしたか?
>マルクスは共産主義「国」を想定していません。
ならば質問を変えます。マルクスは、共産主義とは、いかなる前提の下に顕れるものと言いましたか?
そして、現実の「共産主義」は、マルクスが想定した前提の下で出現しましたか?
あなたの「マルクスは共産主義「国」を想定していません。」という認識自体が、この質問の答えになっているように思いますが(笑)。
D
>>本多氏はソ連における言論の自由の現状を終始厳しく批判していたのであり、「言論の自由がちょっと・・・」という生易しいものではなかったように見受けられます。・・・どこをどのように読めば、そのような形容が可能なのか、具体的に説明して下さい。
>社会主義国に対して独裁でも粛清でも強制収容所でもなく、言論の自由がないのが問題などと言ってる時点でそう言えるでしょう。
いわゆるカンボジア大虐殺に関する著作についてはいかがですか?
F
>>「資本主義」と「社会主義」とはどのような関係にありますか?
>基本的に相容れない関係。
「基本的に」という言葉も「相容れない」という言葉も、その内容が不明確で、どういう意味かは分かりませんが、いわゆる「欧州社民」「左派政権」が資本主義国で政権を担っていること、日本やアメリカを始めとするほとんどの資本主義国で社会主義の考えを取り入れた政策が採用されていることを、どのように説明なさいますか?それでも「社会主義の破産」とおっしゃいますか?
>民俗学的なルポではなく、政治的テーマを扱ったルポや彼が自分の主張をストレートに語る(昔の版の)政治論評をお読みになっても、そう思えないですか?
もう一度言います。
私は、「『社会主義』こそが本多氏の活動の『背骨』だったのか」と質問しました。
政治評論であれ何であれ、そこで「全ての矛盾を解消するためには、社会主義だ!」などと短絡的に発言したような箇所があれば、是非具体的に教えて頂きたいものです。
>サッカーに格闘技にアニメに社会問題。テーマが多岐なのは「ネトウヨ」も同じでしょう。
>三島由紀夫は恋愛小説も書き、歴史小説も書き、軽いエッセイもたくさん書き、ボディビルもやっていたのだから、ことさら右翼民族主義者と捉えることには納得できませんか?
そのような言い方は、詭弁にすぎません。
そのような議論は、「三島由紀夫の作家活動の『背骨』が『右翼民族主義』にあった」という前提があって初めて成り立つものです。そして、私は、そのような認識は有しておりません。
三島氏が「右翼民族主義者」であったとしても、それは、彼の一側面を示したものにすぎません。
三島氏自身、「すべての恋愛、歴史、エッセイ、ボディビルは右翼民族主義につながる」などと短絡してはいませんね。
>>彼は、いかなる体制であれ、個人の尊厳を脅かしうるものだと捉えているのです
>東西冷戦(アジアでは熱戦)の最中、本当に彼はこのように中立に人々を誘うような、あるいはポストモダニストまがいの、評論家然としたことを言っていましたか?
その部分だけを取り出してあげつらい、論点をずらすのは、おやめ頂きたいものです。
私は、本多氏が、環境問題や民族問題、その他の社会問題を語るとき、「諸悪の根源は資本主義だ、社会主義にすれば万事解決」などという態度を取ったのか、と聞いているのです。
>彼の考える社会主義とはどういうもので、それは現実の社会主義とはどう違い、それはどのように実現されると考えていたのか。そして彼はどこでそれを明らかにしているか是非教えて下さい
私は、本多氏がソ連や東欧諸国を厳しく批判しているということ自体、彼が想定したあるべき「社会主義」と違うということになる、と言ったまでです。
逆に、ソ連や東欧諸国を厳しく批判しているのになお、それらの国家が、彼にとってあるべき「社会主義国家」であると言えてしまうのか、そちらの理屈の方が不明です。
>正統派?のキリスト教は同じに扱われちゃかなわんという勢いで、執拗に統一教会批判を繰り返すのに、本多氏が繰り返すのはなぜ自分の考えるものとは「似て非なる」社会主義国の見解の垂れ流しや側面支援なのか、是非説明して下さい。
私は、本多氏が「見解の垂れ流しや側面支援」を行っているとの認識に立っておりませんので、「説明せよ」と言われても困ります。
>ニュースでアルバニアの内紛・悲惨な窮状が伝えられたときもショックを受けました。アルバニアの人々は明るく社会主義建設にまい進してるという本多氏の「アルバニア瞥見」を読んで間もなくだったので。「アルバニア瞥見」のどこにも「私の考える社会主義とは似て非なるものだ」などとは書いてありませんでした。
「アルバニア瞥見」は1970年前後に出版された著作に所収されたもの。対して、アルバニアの「窮状」がニュースになったのは早くとも1980年代後半だったと記憶しています。
実に20年ほどのタイムラグがあります。
あなたの理屈では、本多氏は20年後のことを正確に予見して記事にしなければならないことになります。
いくらなんでもおかしいとは思われませんか?
時系列を無視した批判は、その正当性を損なうものであると忠告しておきます。
>彼は文革の凄惨な内実が明らかとなった後にも「理念には今でも賛成だ」と言い放っていました。
私はそのような箇所を目にしたことがありませんので、具体的な出典、文脈を明示して下さい。
>ポルポト派の暴虐が漏れ伝わり始めたころ何を根拠にか有り得ないデマだと否定していました(その時点では強制移住させただけで実際まだ殺してなかったから間違いではない、などと呆れた弁護をする人もいました)。
これについては、上にたかしさんが挙げた資料に付け加えることはありません。
時系列を無視した批判は、その批判の正当性を損なうものであると、重ねて忠告します。
>少数民族・言語の尊重やら各共和国の独立の自由やら周辺国とは相手側の主張を十分取り入れた上での不可侵条約の締結やら今思えば白々しい社会主義国の政策スローガンを真に受けて大いに感心してみせていました。
「少数民族・言語の尊重」「各共和国の独立の自由」「相手側の主張を十分取り入れた上での不可侵条約の締結」
大いに結構ではありませんか。
それ自体に感心したからといって、何の問題があるのでしょう。
>レーニン、毛沢東、ホーチミンといった独裁者達を称賛していたのも覚えています(「マオ」の感想を聞いてみたいですね)。
具体的に、どこでどう「称賛」したのか、指摘して下さい。
私は、毛沢東に対してちらっと一定の評価をしていた下りを目にしたことはありますが(たしか「殺す側の論理」の中でだったと思います)、大袈裟に見ても決して「称賛」とはいえないものだったと記憶しています。
また、レーニン、毛沢東は別として、ホーチミンを「独裁者」呼ばわりするのを聞いたことはありませんが、一体どのような点を指してでしょうか。
その様子では、あなたの頭の中には、「共産主義を標榜する政治家」=「独裁者」という短絡的な図式があるのでは、と疑ってしまいます。
>彼の考える社会主義が現実の社会主義と「似て非なる」ものなら、なぜ彼は繰り返しあちこちで現実の社会主義に肯定的な発言を行うのでしょう?
ちゃんと読んで頂きたいのですが、私は、「彼の考える社会主義が現実の社会主義と『似て非なる』もの」とは一切言っていません。
なので、あなたのおっしゃる「現実の社会主義」とは何か、不明確です。
「社会主義」は、現実には、ほとんどの国で取り入れられていますので。
>本多氏がマルクス・レーニン主義を真理だと考え、現実の社会主義国が(問題を抱えながらも)それを実現しようとしていると考えていたからなのではありませんか?
私にそのような質問されても困ります。繰り返しますが、私は、本多氏の著作を読んでそのような認識を持つことはありませんでした。
そのような問いかけをなさること自体、「本多氏が社会主義を真理だと考えていた」というあなたの前提の危うさ、怪しさを証明しているように思います。
>本多氏は日帝や米帝の犠牲者に同情してみせる前に、社会主義国の強制収容所で朽ち果てた人民に許しを乞うべきではありませんか?
「社会主義国の強制収容所で朽ち果てた人民」とは、具体的に、どの国のどの人々を指していますか?
そして、本多氏が、いつどこでそのような「強制収容所」への「収容政策」を肯定的に評価、あるいは、認識したうえで見て見ぬふりを決め込みましたか?
具体的に指摘してください。
>>チェーカーさん
なお、念のために言っておきますが、「本多氏の著作は全て捨ててしまったので具体的に示せと言われても無理」というのは許されませんので、よろしくお願いします。理由は、以下のとおりです。
あなたは、(その認識・前提が正しいか否かは別として)本多氏が「共産主義国を礼賛したことの総括」をしていないと批判しておられます。
そうであれば、あなたご自身も、本多氏に「のめり込」み、「誤り」に気付かなかったことの「総括」を当然行わなければならないわけです(そもそも本多氏の言うことを全て鵜呑みにしまうこと自体、本多氏の著作を読んで何も学んでいないことに他ならないと思ってしまうわけですが、それは置いておきます)。
そして、少なくとも、このような全世界に発信される場で本多氏への批判を公にするという形式を取る以上、根拠のある、事実に立脚したものでなければ、到底、他人を納得させることはできないのです。
たとえば、私は、同年代の中では比較的本多氏の著作に親しんだ方です。それ以上でもそれ以下でもありません。高く評価していますが、たかしさんのように「傾倒」しているわけでもなく、あなたのように「のめりこんだ」こともありません。
しかし、その私ですら、あなたの本多氏に対する批判を読んで、「革命党派」云々の点に代表されるように、本多氏の実像を捻じ曲げ、ありもしない虚像を見ているだけなのではないか、という疑問を抱いてしまうわけです。
ましてや、本多氏をよく知らない人が、出店もろくに指摘せずただただ「本多氏はああ言ったこう言った」と批判しているだけのあなたのコメントを読んで、どう思うでしょうか。
そこのところをよくお考えになって、なにとぞ、ちゃんとした具体的根拠に基づく批判を展開して下さいませ。
訂正です。
>出店もろくに指摘せず
↓
>出典もろくに指摘せず
↓
事実に基づかず思い込みを垂れ流すこと
> あなたは、(その認識・前提が正しいか否かは別として)本多氏が「共産主義国を礼賛したことの総括」をしていないと批判しておられます。
> そうであれば、あなたご自身も、本多氏に「のめり込」み、「誤り」に気付かなかったことの「総括」を当然行わなければならないわけです
同意です。
私も本多氏が「総括」などする必要などないと思うですが、仮にチェーカー氏が、本多氏は「総括」すべきだと言い、これまでとは一転して批判の立場に転じるなら、自分自身も「総括」するのが筋ですね。それこそが、本多氏を支持した者の責任の取り方ってもんでしょう。
それができないならば、「沈黙して語らず」というのが、正しい責任の取り方だと思います。
>そもそも本多氏の言うことを全て鵜呑みにしまうこと自体、本多氏の著作を読んで何も学んでいないことに他ならないと思ってしまうわけですが、それは置いておきます
見ているのが「虚像」なら、それもむべなるかな、ということかも知れんです。
>>チェーカーさん
F
>>「資本主義」と「社会主義」とはどのような関係にあります
か?
>基本的に相容れない関係。
これこそが「大間違い」です。
「社会主義」は、「資本主義」抜きではあり得んです。
資本主義の矛盾こそが、社会主義の母です。
つまり、ある意味、社会主義は、資本主義を「修正補完」する関係にあるものです。
それを「相容れない関係」などというのは、社会主義についてろくすっぽ知ろうともせず、マルクスを齧ってもおらん証拠です。
mebarun氏が
>日本やアメリカを始めとするほとんどの資本主義国で社会主義の考えを取り入れた政策が採用されている
>「社会主義」は、現実には、ほとんどの国で取り入れられています
と言っているのは、そういうことです。
>>mebarunはん
> 「アルバニア瞥見」は1970年前後に出版された著作に所収されたもの。対して、アルバニアの「窮状」がニュースになったのは早くとも1980年代後半だったと記憶しています。
> 実に20年ほどのタイムラグがあります。
> あなたの理屈では、本多氏は20年後のことを正確に予見して記事にしなければならないことになります。
> いくらなんでもおかしいとは思われませんか?
> 時系列を無視した批判は、その正当性を損なうものであると忠告しておきます。
確かに。いくらなんでもそらあきまへんなー。
「カンボジア大虐殺否定」のウソと合わせて決定的でんな(ケケケ
ホンカツはん憎しの一念しか見えへんわ。
昔ファンやったっちゅーんもあやしいのねんのねん。ひょっとしてかなんかなん?
クエックエックエ〜!
Mebarunさん
>>彼は「あらゆる差別の真の原因は経済にある」旨語っています。
>「経済」=「資本主義」という読み方をして初めて成り立つ捉え方ですね。 しかし、両者はイコールではありません。いかなる政治体制であっても、「経済」は存在します。彼が、「資本主義をやめて社会主義にすれば差別がなくなる」などといつ言ったのか、教えて下さい。
この場合「経済」=「資本主義」と受け取らないと、どんな体制になろうと差別は解消されないと本多氏が主張してることになって不自然だと思います。
>「殺される人、抑圧される人がいるとき、」は、「革命党に身を投じるべし」ということになるはずがありませんね。
なる場合もあるでしょう。
>「現状変革」=「革命党に身を投じる」というテーゼが決して成り立ち得ないことも、また同じです。
そうなる場合もあるでしょう。
>「中間派」などというものがただの保身のための欺瞞で、結局は抑圧する側に立つことにほかならない、という認識が刷り込まれています。そのような考え方が「革命党派」的だ、とするのは、極めて短絡的で、全くもって筋違いなレッテルだとしか言いようがありません。
中間派を否定する考えが、常に革命党派的だなんてレッテル貼り誰もしてませんよ。
あなたは、もしかして私が「本多を読めば革命党派入りを考えるのが必然だ」と主張してると思ってるのですか?そうではないですよ。「キャプテン翼」読んでサッカー部入る人、ブラジル行っちゃう人、Jリーグのサポーターになる人、漫画家目指す人、何もしない人、色々でしょう?同じです。現状変革が革命党派入りと必ずしもイコールではないなんて当然ですよ。「キャプテン翼を読んでサッカー始めました」という人がいたら「どこにもサッカー始めろなんてテーゼ書いてないのに」と不思議に思うのですか?
本多氏が左翼と言われているのはご自身でも認めてることです。ゲバ学生のバイブル「朝日ジャーナル」で書いてるスター記者でしょう?政党で言えば自民党嫌悪で社会党や共産党の方と近いでしょう?米帝日帝の戦争犯罪の追及に熱心なのはご存じでしょう?中国びいきだの言われてるのもご存じでしょう?・・・・
そんな人の影響を受けて革命党派入りを考えることを、全く思いもよらないことだと感じる人がいるのが不思議です。もしかしてMebarunさんにとっては「キャプテン翼読んでサッカー部」も理解の外なのかと不安です。
>いわゆる「アラサー」とだけ言っておきます。
30歳前後なら高校時代にはもうソ連が消滅した後ではないですか?本多氏読んで革命党派なんて私の周囲にもいなかったとおっしゃいますが、初めからそんな人が存在する可能性がほとんどない世代でしょう。
『彼が、「資本主義をやめて社会主義にすれば差別がなくなる」などといつ言ったのか』
『「全ての矛盾を解消するためには、社会主義だ!」などと短絡的に発言したような箇所があれば、是非具体的に教えて頂きたいものです。』
『諸悪の根源は資本主義だ、社会主義にすれば万事解決」などという態度を取ったのか』
『本多氏が、いつどこでそのような「強制収容所」への「収容政策」を肯定的に評価、あるいは、認識したうえで見て見ぬふりを決め込みましたか?』
という具合に明言しない限りそういう意思を表したことにはならないと単純に思い込んでおられるようです。
直接明言しなくともある意味内容を主張することはいくらでも可能なんですよ。
ヤクザの親分が子分に酒を注ぎながら「○○組のAには頭痛めとるんや。。。ところでお前もそろそろ男を上げる時期やな。家族には一切不自由させんぞ」これは親分から子分への殺害命令なんです。そんなことを明言した「事実」はどこにもないのですが、そういう意味なんです。ここがmebarunさんには理解不能なようで困惑します。
諸国民の富が出たのは源蓄の後ではないでしょうか。
>共産主義は、私有財産を完全に否定するものではありません。
>マルクスは、共産主義とは、いかなる前提の下に顕れるものと言いましたか?
Mebarunさんはマルクス主義経済学が基礎に据えている労働価値説を妥当なものだと考えているんですね?
そう考えているから、このような神学論争をしたがるのですね?
>欧州社民」「左派政権」が資本主義国で政権を担っていること、日本やアメリカを始めとするほとんどの資本主義国で社会主義の考えを取り入れた政策が採用されていることを、どのように説明なさいますか?それでも「社会主義の破産」とおっしゃいますか?
一般に「社会主義の破産」といえばソ連その他のマルクスレーニン主義国家群の破産のことで、ここでも同様の意味です(私の文脈から社会主義的政策やら社民やらが出てくる余地はないと思いますが)。
「本多信者」にとって社会主義国の帰趨、「正しい」体制の帰趨をめぐる問題でした。自分の思考の形、倫理の根底を試される感覚だったわけです。矛盾のある資本主義を現在唯一根本的に乗り越えようと試みている「正義の」社会主義国の趨勢は、他人事でない感じでした。少なくとも私にはそうでした。それがどうなるかはプラグマティックな政策的なパイの分け前の問題ではなかったわけです。人間が理性によって現実を認識し変革し理想社会を実現することが出来るかどうかの試金石のような感じです。で、結果はああだったわけです。そんなわけですから社会主義的政策がどうとか欧州社民があるから社会主義は崩壊していないというような言い回しは私には違和感があります。
>>東西冷戦(アジアでは熱戦)の最中、本当に彼はこのように中立に人々を誘うような、あるいはポストモダニストまがいの、評論家然としたことを言っていましたか?
>その部分だけを取り出してあげつらい、論点をずらすのは、おやめ頂きたいものです。
「本多氏は、いかなる体制であれ(つまり社会主義国だろうが共産主義だろうが)、個人の尊厳を脅かしうるものだと捉えている」ことを論証されれば、私の主張は根本から危うくなるので論点ずらしどころではないでしょう。
>「アルバニア瞥見」は1970年前後に出版された著作に所収されたもの。対して、アルバニアの「窮状」がニュースになったのは早くとも1980年代後半だったと記憶しています。 実に20年ほどのタイムラグがあります。 あなたの理屈では、本多氏は20年後のことを正確に予見して記事にしなければならないことになります。 いくらなんでもおかしいとは思われませんか?
ショックを受けるのがおかしいですか?社会主義建設にまい進してるはずの国が「わずか」10年ほどで(報じられたのは80年代後半ですが破たんはそれより前)極貧国家になり果てていたのですよ。当時社会主義国に思い入れのある人間がショックを受けるのは理解できないでしょうか。
>私はそのような箇所を目にしたことがありませんので、具体的な出典、文脈を明示して下さい。
『貧困なる精神』23集
本多 そこで文革ですけど、最初中国に行って私たちが理念を聞いたときには非常に感心したんですよ。日本なんかで大問題となっている社会現象などでも、文革の理念に解決の糸口がみえたりした。教育問題も含めてね。だからこそ当時の西側の学生運動や知識人にも影響を与えたのでしょう。ところがあとになってみると実態はとんでもないことだったと。当時はまだわからなかったわけですけれども。しかし文革については、私は今でも理念自体は悪いと思われないんですね。それがどう狂ってああなったのか。
「検証カンボジア大虐殺」
「私は文革中に中国を取材旅行したことがありますが・・・あのとき各地できいた文革の理念自体は、それなりに筋が通っていたし、説得力もありました。問題はそれが実際面で果たしてどう行なわれていたかですが、この点は取材の自由が全くないので見当もつきません。それが今になっていろいろ暴露されてきて、中国はもう文革全面否定のようですが、私としては理念や初心までもが単なる陰謀だったとは、とうてい思えないのであります。」
>>ポルポト派の暴虐が漏れ伝わり始めたころ何を根拠にか有り得ないデマだと否定していました(その時点では強制移住させただけで実際まだ殺してなかったから間違いではない、などと呆れた弁護をする人もいました)。
>これについては、上にたかしさんが挙げた資料に付け加えることはありません。 時系列を無視した批判は、その批判の正当性を損なうものであると、重ねて忠告します。
Mebarunさんは殺される側、抑圧される側(この場合強制移住させられた人々の側)に立つような口ぶりでしたがずいぶん冷たいですね。
>>今思えば白々しい社会主義国の政策スローガンを真に受けて大いに感心してみせていました。
>大いに結構ではありませんか。 それ自体に感心したからといって、何の問題があるのでしょう。
Mebarunさんが『彼の考える「社会主義」と、現実の「社会主義国家」の推し進める「社会主義」とは、似て非なるものです』と仰ったので、
似て非なるものならば理念に関心してみせるのはおかしいのではないか?と疑問に思った次第です。それにジャーナリストが宣伝を真に受けてはダメでしょう。
>具体的に、どこでどう「称賛」したのか、指摘して下さい。
「ルポルタージュの方法」
「毛沢東には最近中国でも批判が出ているようですが、あれだけの巨大な
仕事をした人には、何といっても学ぶべきところが多いし、「実践論」は古典になるでしょう」
「殺す側の論理」
「私は毛沢東のいわゆる「盲従分子」では全くないけれど、学生時代から
彼の著作を読んだり行動を伝聞して感心するのは、あのイデオロギーと
してのマルクス・レーニンを、完全に「中国の論理」の中へ組み込んで
生かしている点です。彼の真の強さは、ここにあると思っています」
あと、確か息子を前線に送って死なせたのは並の指導者にはなかなか出来ないことだとか言ってましたね。
天皇の戦争責任について、本多氏は、当時最高権力者だった人物に責任があることについて議論の余地はないと仰っておられたと思います。
とても常識的で素直な発想だと思います。私も全くそうだと思います。
彼は確かに政治権力者ではありませんが、大新聞の花形記者で社会主義国に期待、肩入れしていたと見る人もいるわけです(彼をこう見ている人間がこの世で私だけだと思う方は、おそらくいらっしゃらないとおもいます。)
そのような立場にあった彼に何らかの総括を求めるのは、それほど不当なことだとは思わないです。
これは私の勘ですが、チェーカーさん、あなたは本多勝一ファンであったことなど、もしかして無いのではありませんか?つまりどうもあなたは、筋金入りの「本多研」信者のように思えるのです。はじめからあなたは本多勝一を「気に入らないサヨク」としてターゲットにしていたのではないか、という気がして仕方がない。本多勝一を読んで「革命党派」に憧れたというのもひょっとしてウソなのではありませんか?
まず第一に先日来、ほとんどの引用が「本多研」のサイトからですね。それと、ある2チャンネルのスレッドからもずいぶんコピペを行なっている。もしかしてこの2チャンネルスレッドに、あなたは書き込んでいるのではありませんか?いったいどの「名無しさん」があなたなのでしょうね?ひとつ「白状」なさってみてはいかがです?どうもあなたらしいのが一人いるんですが、ま、間違ってもナニですので申し上げないでおきましょう。
http://natto.2ch.net/mass/kako/1003/10034/1003416133.html
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/8442/QA.html
あなたは「社会主義」に反感を持っておられます。あれこれの社会主義国の実態は、確かに酷いものであったと私も思います。第二次大戦中のスターリンの粛清・思想弾圧・民衆への圧政などはナチスや日本ファシズムに劣らず非人間的でした。ルーマニアや東ドイツの実態も戦後次々と暴露されていった。それらを見てあなたは「社会主義とはこういうものだ」「これが社会主義の本当の姿だ」と思っていらっしゃるのでしょう。それはそれで構いません。私たちがいくら「それは社会主義の本当の姿ではない」といったところであなたは納得しはしないでしょうから。
ここで申し上げておきますが、当ブログは「社会主義嫌い」のあなたと「社会主義」を論じるためにあるのではありません。ましてや「資本主義」と「社会主義」は基本的に相容れない関係、などという誤った認識を持っておられるあなたとの議論ははっきり言って疲れます。
言っておきますが「社会主義」という体制は「資本主義」あっての体制なのですよ。「相容れない」どころか「資本主義」なくしてはあり得ないのが「社会主義」なのです。もっと言えば「資本主義」における獲得物は「社会主義」において「否定」などされません。逆です。資本主義社会で培ったブルジョア民主主義や高い生産性は、「社会主義」の世界においても、発展した形で引き継がれます。これを「止揚」というのです。
「社会主義」と「共産主義」との差異は、あなたが言うように「私的所有がまだ残っているか完全になくなったか」などでは全然ありません。だいたい「私的所有が完全になくなった」社会とはいったい何なんですか?そんなもの存在しうるとでも思っているのですか?
すばり申し上げます。私のブログの目的は「ネトウヨと称される人種の程度の低さ、その卑しい品性を暴露し白日の下に晒すこと」にあります。あなたもこのブログの「過去ログ」をじっくり読みなさい。あなたがその貧困な「社会主義」の知識を盾に、このブログに留まるのならそれはそれで結構です。我々もそのように対処するまでです。
>>チェーカーさん
あなたが反論していないところ(例えば「ホーチミンは独裁者とはいえない」とか)については、反論なし、私の言い分を認めるということでよろしいですか?
>>いかなる政治体制であっても、「経済」は存在します。彼が、「資本主義をやめて社会主義にすれば差別がなくなる」などといつ言ったのか、教えて下さい。
>この場合「経済」=「資本主義」と受け取らないと、どんな体制になろうと差別は解消されないと本多氏が主張してることになって不自然だと思います。
早い話が、本多氏は「資本主義をやめて社会主義にすれば差別がなくなる」などと短絡していないと認めるわけですね。
>>「殺される人、抑圧される人がいるとき、」は、「革命党に身を投じるべし」ということになるはずがありませんね。
>なる場合もあるでしょう。
>>「現状変革」=「革命党に身を投じる」というテーゼが決して成り立ち得ないことも、また同じです。
>そうなる場合もあるでしょう。
つまり、「革命党派に身を投じる」ことが断じて論理必然ではないと認めるわけですね。
>中間派を否定する考えが、常に革命党派的だなんてレッテル貼り誰もしてませんよ。
おかしいですね。ならばなぜ、私が「『本多氏の主張を読む→革命党派に身を投じる』というテーゼがなぜ成り立つのか」という質問をしたのに対する答えとして、「本多氏は曖昧な中間派を認めない」ことを強調したのですか?
>あなたは、もしかして私が「本多を読めば革命党派入りを考えるのが必然だ」と主張してると思ってるのですか?そうではないですよ。
そうではなかったのですか?さんざん「中間派を認めない」「現状変革」だのを持ち出しておられたので、そうお考えなのかと思いましたが…
ならば、なぜ「革命党派に身を投じよう」と思ってしまったのですか?
>本多氏が左翼と言われているのはご自身でも認めてることです。ゲバ学生のバイブル「朝日ジャーナル」で書いてるスター記者でしょう?政党で言えば自民党嫌悪で社会党や共産党の方と近いでしょう?米帝日帝の戦争犯罪の追及に熱心なのはご存じでしょう?中国びいきだの言われてるのもご存じでしょう?・・・・
>そんな人の影響を受けて革命党派入りを考えることを、全く思いもよらないことだと感じる人がいるのが不思議です。
「左翼と『言われている』」「ゲバ学生のバイブル」「中国びいきだの『言われている』」…
いずれも、本多氏の著作の内容からは出てきませんね。
また、彼が自身を「左翼」と規定したことはないと記憶しております(あったら指摘をお願いします)。
「戦争犯罪の追及」は、良識ある人ならばむしろ当然のことであって、別に「左翼」の専売特許ではありませんし。
こういう書き方だけ見ても、あなたは、ろくすっぽ実像を検討せずに、伝聞やうわさや曖昧なイメージで本多氏を捉えていることがよく分かりました。
そりゃ早合点して「影響を受けて革命党派入りを考える」はずですね。
>もしかしてMebarunさんにとっては「キャプテン翼読んでサッカー部」も理解の外なのかと不安です。
場面が全く違います。比喩などというのは、どこまで言っても比喩でしかなく、所詮論理的な修辞法たりえません。
よりによってこのような幼稚な比喩を持ち出すとは、呆れてものも言えません。
>30歳前後なら高校時代にはもうソ連が消滅した後ではないですか?本多氏読んで革命党派なんて私の周囲にもいなかったとおっしゃいますが、初めからそんな人が存在する可能性がほとんどない世代でしょう。
「世代」の問題でしょうか?
共産党が参議院選挙で大躍進したのもその頃です。
そもそも、我が国では、冷戦が終わったかどうかに関わりなく、「革命党派」である共産党は、政治的には終始少数派でした。
日本共産党はだいぶ昔からソ連と袂を分かち、「無関係」と言っていましたし。
高校時代の友人で大学に入ってから民青同盟に入った人もいますが、彼はたぶん本多氏の著作を読んだことなどなかったと思います。
なので、関係ないとしか思えませんね。
仮に「世代」の問題だとおっしゃるなら、それはそれで大いにけっこうです。本多氏の著作を先入観なく虚心坦懐に読めば、本多氏を「革命党派」などと結びつけることなど思いもよらないのだ、ということの証明になるわけですから(笑)。
この点については、是非、たかしさんにもお聞きしたいですね。
>ところであなたは、
>『彼が、「資本主義をやめて社会主義にすれば差別がなくなる」などといつ言ったのか』
>『「全ての矛盾を解消するためには、社会主義だ!」などと短絡的に発言したような箇所があれば、是非具体的に教えて頂きたいものです。』
>『諸悪の根源は資本主義だ、社会主義にすれば万事解決」などという態度を取ったのか』
>『本多氏が、いつどこでそのような「強制収容所」への「収容政策」を肯定的に評価、あるいは、認識したうえで見て見ぬふりを決め込みましたか?』
>という具合に明言しない限りそういう意思を表したことにはならないと単純に思い込んでおられるようです。
あの…そういうありもしない印象操作はやめていただきたいものです。
私がいつ「明言した箇所を示せ」と言いましたか?
ただ、本多氏の文章から根拠を示してほしいと言っているだけです。
結局、本多氏がそういった類いの短絡的な思考をしているという根拠は指摘できないということですね。
よく分かりました。それで充分です。
>ヤクザの親分が子分に酒を注ぎながら「○○組のAには頭痛めとるんや。。。ところでお前もそろそろ男を上げる時期やな。家族には一切不自由させんぞ」これは親分から子分への殺害命令なんです。そんなことを明言した「事実」はどこにもないのですが、そういう意味なんです。ここがmebarunさんには理解不能なようで困惑します。
また比喩ですか。所詮論理的な話とは無縁のものですから、以後、厳に慎んで頂きたいものです。
ならば、そういう仄めかしをやっている箇所を指摘すれば済むだけではありませんか。
「社会主義体制なら全ての問題はなくなる。さあみんなで社会主義に邁進しよう!」と短絡的に言っている箇所を。
>諸国民の富が出たのは源蓄の後ではないでしょうか。
「源畜」とは何か全く分かりませんが…
産業革命が始まったのが「諸国民の富」以前だとしても、それは大した問題ではありません。
イデオロギーと呼ばれるものの多くは、世の中の動きの後追いです(それは「社会主義」も同じです)。
結局のところ、「諸国民の富」に始まる資本主義の思想が、産業革命を推進する原動力であったことは、動かし難い事実です。
>Mebarunさんはマルクス主義経済学が基礎に据えている労働価値説を妥当なものだと考えているんですね?
>そう考えているから、このような神学論争をしたがるのですね?
私は、マルクス主義者ではありませんし、「神学論争」に全く興味はありません。
私が言わんとすることは、2点です。
・共産主義は、マルクスによれば、資本主義の究極形態である帝国主義がさらに進んだ際に現れる
→現実には、ロシアや中国といった、マルクスのいう前提を欠いた国で行われたもの。共産主義自体が正しいかどうかは確かめようがない。
・社会主義は資本主義の矛盾が極限に達した産業革命末期に現れた考え方であり、資本主義の修正原理としてはたらいた(現にほとんどの資本主義国で取り入れられている)。
→「社会主義の破産」などという表現はナンセンス。
>一般に「社会主義の破産」といえばソ連その他のマルクスレーニン主義国家群の破産のことで、ここでも同様の意味です
つまり、「社会主義国家」が破産したからといって「社会主義」自体が破産したわけではないと、お認めになるわけですね。
ならば、本多氏はなおさら全く総括する必要はありませんね。
それにしても、かなり無理な一般化ですね。
「社会主義」=「マルクスレーニン主義」とするのは、さすがにかなり無理があると思います。
>「本多信者」にとって社会主義国の帰趨、「正しい」体制の帰趨をめぐる問題でした。自分の思考の形、倫理の根底を試される感覚だったわけです。矛盾のある資本主義を現在唯一根本的に乗り越えようと試みている「正義の」社会主義国の趨勢は、他人事でない感じでした。少なくとも私にはそうでした。
「『本多信者』にとって」という言葉を削除すれば意味が通じます。
言わんと欲することは、あなたがそうだったというだけですね。
読めば読むほど、チェーカーさんの独白にすぎず、本多氏とは何のかかわりもないと思いますが。
>「本多氏は、いかなる体制であれ(つまり社会主義国だろうが共産主義だろうが)、個人の尊厳を脅かしうるものだと捉えている」ことを論証されれば、私の主張は根本から危うくなるので論点ずらしどころではないでしょう。
そう開き直りますか。
元はと言えばどんな話だったか、もう一度振り返りましょう。
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<チェーカー>
本多氏のジャーナリズム活動は、現実の諸矛盾の根本原因を資本主義にあると捉え、その矛盾を克服しうる体制として社会主義に期待をかけるという「背骨」を持っていたと考えます。社会主義の破綻は、本多氏のこの背骨をへし折るような、あるいは大いに揺さぶるものではあるはずです。
<mebarun>
本多氏のジャーナリズム活動の対象は実に多岐にわたり、その「背骨」が「社会主義体制への期待」などというごく限定された矮小な点にあったとはどうしても読みとれないのです。「日本環境報告」「カナダ・エスキモー」「アイヌ民族」等をお読みになれば一目瞭然です。彼は、そこで「この問題を解決するには社会主義だ」などと短絡したでしょうか。彼は、いかなる体制であれ、個人の尊厳を脅かしうるものだと捉えているのです。
>Posted by mebarun at 2009年06月28日 16:28
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「『社会主義体制ならば(環境問題、少数民族問題など)個人の尊厳を脅かす全ての問題が解決する』と短絡していない」=「『いかなる政治体制であれ、個人の尊厳を脅かしうる』と考えている」、ということです。ごく当たり前のことです。
私に「ないことの証明」つまり「悪魔の証明」をしろというのですか?
元はと言えば、チェーカーさんが、「本多氏はこう考えている」と言いだしたことです。
なので、まず、チェーカーさんが、「本多氏が『全ての矛盾を解決するには社会主義だ』と考えている」という命題を論証するのが筋なのです。
それなのに、私に、「本多氏がそのように考えていないこと」を証明しろとは、筋違いも甚だしいです。
結局証明できないというわけですね。
>ショックを受けるのがおかしいですか?社会主義建設にまい進してるはずの国が「わずか」10年ほどで(報じられたのは80年代後半ですが破たんはそれより前)極貧国家になり果てていたのですよ。当時社会主義国に思い入れのある人間がショックを受けるのは理解できないでしょうか。
20年でも10年でも同じことです。10年後のことを正確に予測しろというのも不可能です。
現に、その10年ほどの間にも、中国との断交という不測の事態など、アルバニアをめぐる経済情勢は動いています。
チェーカーさんは、1980年頃に、バブルの崩壊を予測できましたか?
さらに言えば、1年前に、今のような世界的不況を予測できましたか?
あなたは、「10年後までに起きうる事態を、不測の事態も含めて正確に予測し、それをちゃんと批判すべし」と、荒唐無稽なことを言っているのです。
いかに本多氏とて、神ではありません。時系列を無視した批判は、批判たりえないのです。
>>私はそのような箇所を目にしたことがありませんので、具体的な出典、文脈を明示して下さい。
>『貧困なる精神』23集
(引用略)
確かに、本多氏は「理念自体は悪いと思われないんですね」とは言っていますが、「ところがあとになってみると実態はとんでもないことだった」「どう狂ってああなったのか」と、強い表現で、明確な否定的評価をしており、重点もそこにあります。
したがって、あなたの
>「理念には今でも賛成だ」と言い放っていました。
という表現は、「理念への評価が現実の否定的側面を正当化する」かのような言い方であり、明らかにニュアンスが違うもので、発言の趣旨を歪曲するものです。
>「検証カンボジア大虐殺」
(引用略)
ここでも本多氏は「理念」と「現実」を区別し、「理念は評価」「現実は批判」のスタンスです。
「理念への評価が現実の否定的側面を正当化する」かのような言い方はしていません。
>Mebarunさんは殺される側、抑圧される側(この場合強制移住させられた人々の側)に立つような口ぶりでしたがずいぶん冷たいですね。
あの…これで二度目ですが、たかしさんが紹介したページをお読みになってから言って下さい。
http://www1.odn.ne.jp/kumasanhouse/movement/sinbun_yomitai/peten01.html
>Mebarunさんが『彼の考える「社会主義」と、現実の「社会主義国家」の推し進める「社会主義」とは、似て非なるものです』と仰ったので、
>似て非なるものならば理念に関心してみせるのはおかしいのではないか?と疑問に思った次第です。
本来こうあるべきという「理念」をちゃんと実行しないという点をさして、「似て非なるもの」と言ったまでですが、お分かりになりませんでしたか。
チェーカーさんは、理念と現実をごっちゃにして論じる傾向があるようですね。
>ジャーナリストが宣伝を真に受けてはダメでしょう。
その当否は別として、「本多勝一を信じて裏切られた!」と騒ぎ立てるあなたがそれを言うとは片腹痛いですが(笑)。
繰り返しますが、そもそも(その捉え方が正しいか否かは別として)本多氏の言うことを全て鵜呑みにしまうこと自体、本多氏の著作を読んで何も学んでいないことに他ならないのではないですか?
>>具体的に、どこでどう「称賛」したのか、指摘して下さい。
>「ルポルタージュの方法」
(引用略)
>「殺す側の論理」
(引用略)
それらのどこが、独裁者としての毛沢東を「称賛」していることになるのか、私には分かりません。
現に、別の個所では、あなたが引用して下さったように、彼が推し進めた文革の内実を明確に批判しております。
しかし、特に、抗日闘争を推し進めた功績などは評価しなければなりますまい。
是々非々で何が悪いのでしょうか?
あ、それと、レーニンとホーチミンについては、結局見つけられなかったわけですね。
>彼は確かに政治権力者ではありませんが、大新聞の花形記者で社会主義国に期待、肩入れしていたと見る人もいるわけです(彼をこう見ている人間がこの世で私だけだと思う方は、おそらくいらっしゃらないとおもいます。)
>そのような立場にあった彼に何らかの総括を求めるのは、それほど不当なことだとは思わないです。
あなたが「不当なことだとは思わないです」とおっしゃるのは自由ですが、それは、到底、ちゃんとした事実や根拠に基づかないものです。
ここまでたかしさんや私が指摘してきたように、本多氏は、明らかに、ソ連や東欧の社会主義国・共産主義国の現実に対し、厳しく批判していました。私のような「非信者」が、氏の著作を虚心坦懐に読む限り、「肩入れしていた」という形容は、不当なものです。それなのに、「と見る人もいるわけです」と、本多氏の著作とは何らの関係のない理屈を持ち出すのは、本多氏の著作をろくに読まずに、あるいはその趣旨を捻じ曲げ、虚像を批判するものにすぎません。
現に、結局、あなたは、
>本多氏のジャーナリズム活動は、現実の諸矛盾の根本原因を資本主義にあると捉え、その矛盾を克服しうる体制として社会主義に期待をかけるという「背骨」を持っていたと考えます。社会主義の破綻は、本多氏のこの背骨をへし折るような、あるいは大いに揺さぶるものではあるはずです。
とおっしゃったことの根拠を何一つ指摘できませんでした。そんなに徹頭徹尾曲解、歪曲してまで本多氏に「総括」を求めるのは、いかなる魂胆があってのことかと、疑ってしまいます。そんなに本多氏が憎いですか?
これ以上、相変わらずしょうもない不当な難クセ、イチャモンつけを繰り返すのであれば、読者がどう思うか、よくお考えになるのが身のためです。
>>mebarunさん
>現に、結局、あなたは、
>>本多氏のジャーナリズム活動は、現実の諸矛盾の根本原因を資本主義にあると捉え、その矛盾を克服しうる体制として社会主義に期待をかけるという「背骨」を持っていたと考えます。社会主義の破綻は、本多氏のこの背骨をへし折るような、あるいは大いに揺さぶるものではあるはずです。
>とおっしゃったことの根拠を何一つ指摘できませんでした。
つまるところ、そこなんですよね。
チェーカーさんが独りよがりな思い込みをするのは勝手ですが、全くもって他人を説得することなんかおぼつかんです。
それにしても、仮に本多氏が社会主義国家の代弁者だったとしても、それを盲信してしまったチェーカー氏は、自分自身にも問題があるとは思わんですかね。
それを自分は「総括」もせんで一方的に被害者面して「本多氏は総括しろ」とは、呆れ果てるばかりですわ(なお、繰り返しますが、断じて本多氏は総括する必要などないと思います)。
読解力理解力だけじゃなく人格も疑われます。
>そんなに徹頭徹尾曲解、歪曲してまで本多氏に「総括」を求めるのは、いかなる魂胆があってのことかと、疑ってしまいます。そんなに本多氏が憎いですか?
・時系列の無視
・文脈の無視
・意味の曲解
・言ってもいないことを言ったという
これだけのことをやらかせば、何か魂胆があるのは決定的ですね。
たかしさんが言うように、「昔はファンだった」というのもおそらく嘘でしょうな。
「政治体制を社会主義に変えさえすれば全ての問題は解消する」だあ?
本多勝一がそんな人間様の愚かさを無視したアホなこと言うはずねーじゃん(藁
>>たかし氏
>チェーカーさん、あなたは本多勝一ファンであったことなど、もしかして無いのではありませんか?
>本多勝一を読んで「革命党派」に憧れたというのもひょっとしてウソなのではありませんか?
>>mebarun氏
>そんなに徹頭徹尾曲解、歪曲してまで本多氏に「総括」を求めるのは、いかなる魂胆があってのことかと、疑ってしまいます。そんなに本多氏が憎いですか?
>>アラン氏
>これだけのことをやらかせば、何か魂胆があるのは決定的ですね。
>たかしさんが言うように、「昔はファンだった」というのもおそらく嘘でしょうな。
俺 も そ う 思 う(藁
たぶんチェーカーとかいう人物は、本多氏の本なぞろくすっぽ読んじゃいない。
誰かの批判を鵜呑みにしてるだけと思われ
>Posted by チェーカー at 2009年06月28日 06:04
>>うーはん
>俺 も そ う 思 う(藁
たかしはんやmebarunはんやアランはんだけやのうて、わしのも忘れんでおくれんかなもし(ケケケ
↓
>ホンカツはん憎しの一念しか見えへんわ。
>昔ファンやったっちゅーんもあやしいのねんのねん。
>Posted by バカウヨヲチャー2 at 2009年07月01日 17:23
>>チトーはん
>「本多勝一は東側諸国の手先」の結論先にありきのチェーカーの論述手法は、まさに教条的マルクス主義者クリソツというかそっくり…
そういや高橋源一郎が藤岡信勝のことをそないな表現で喝破しとったのねんのねん…
実はわしも藤岡信勝とチェーカーはんがみょーに重なると思っとったのねんのねん(ケケケ
クエックエックエ〜!
>>チェーカーさん
例えば、「本多勝一研究会」での本多氏に対する批判の中に、こんなのがあります。
↓
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/8442/research/china/Mao80mil.html
ここで引用されている本多氏の
「美しい理想を原則とし、かつ実行する政権」
という表現は、2ちゃんねる等でもよく引き合いに出して「本多叩き」のネタにされています。
この手の批判をどう思いますか?
是非是非、チェーカーさんの意見をお聞かせ下さい。