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たかしの「都々逸教室」2
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万歳と 挙げていった手を 大陸に置いてきた
修身にない孝行で淫売婦
「都々逸教室」なのに申し訳ないが、これらは鶴彬(つるあきら)の川柳である。まさに「凍りつくようなユーモア」だ。鶴彬は、その作品の先鋭さの故に小林多喜二同様、官憲に捕まり獄死している。上記の作品をもう一度よく味わっていただきたい。これらは小林多喜二の文学作品同様、当時の日本の支配層を怒らせるのに充分なエネルギー持った作品である。この鶴彬の本名が、何と「喜多一二」(きたかつじ)だというから、まるで嘘のようである。
「手と足を もいだ丸太に してかへし」という句が凄いのは「もげだ丸太になり帰り」ではなく「もいだ丸太にして返し」だということだ。手足が「勝手にもげた」のではなくて、もいだ「誰か」が居ると、鶴彬は読者に対し言っているのだ。もいだのは「国家権力」であり「支配層」である。奥さん、あなたの息子さんの両手両足をもいで返したのは中国の兵隊ではありません「天皇制国家権力」ですよ、と彼は読者に教えている。そしてそれは読んだ者には直感的に伝わる。そんな説得力をこの作品は持っている。これらの一連の「川柳」を、国家権力が恐れたからこそ、それを作った青年を検束したうえ、獄死させたのだ。
話が横道にそれてしまったが、私としてはこの鶴彬のやったことを、都々逸でやってみようというのが夢である。私の考えでは、都々逸は川柳と並んで「風刺」にもぴったりの形式だ。都々逸にはそういう力があると私は確信している。私が考えた「ネトウヨ都々逸」は、ネトウヨという「究極の馬鹿」をおちょくり倒す、実に楽しい都々逸である。日本全国で流行ってほしいと思っている。
江戸時代の都々逸にはウィットに富んだ誠にすばらしい作品が多いが、それらの多くは男女の感情の機微を題材にしている。
浮名立ちゃ それも困るが 世間の人に 知らせないのも 癪な仲
この酒を 止めちゃ嫌だよ 酔わせておくれ まさかしらふじゃ 言いにくい
お酒飲む人 花なら蕾 今日も咲け咲け 明日も咲け
痣がつくほど つねっておくれ あとでのろけの 種にする
うーんと唸るような作品ばかりだ。古典はやはりすばらしい。前回申し上げた通り、都々逸においては「音律」「拍子」がことに重要である。四拍子のリズムにうまく乗ったものが優れた都々逸なのである。上記の江戸都々逸では、それらの「法則」が、見事に守られていることがお分かりになると思う。読者諸兄もこれからは「音律」「拍子」に気を付けて都々逸を作っていっていただきたいと思う。
さて都々逸の結句(最後の五文字)の節であるが、体言(名詞)止めもしくは動詞の終止形が良いとされる。「連用形」というのは、俳句や川柳で良く用いられる止め方であるが、都々逸においてはあまり相応しくないとされている(「新編どどいつ入門」中道風迅洞著)。私の作品から「連用形」の例を挙げてみる。
この「ウヨとなり」の部分がすなわち「連用形」である。これは都々逸にふさわしくないというのであるから、次のようにすべきであろう。
学校で 留学生を 口説いてみたが みごと振られて ウヨとなる
回答も 恥も名誉も 礼儀もくそも みんな忘れて 遁走し
これは、
回答も 恥も名誉も 礼儀もくそも みんな忘れて 遁走す
となる。
つづく
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川柳は、庶民の心の武器・・とも言えるかも知れません。
神山征二郎監督の映画「鶴彬ーこころの軌跡」が今全国で点々と上映されていますね。