小林は、この家がそば屋にそっくりだといって大喜びだった。眼鏡をはずし、大の字に寝ころんで、背のびをしたり、大きな声で笑ったり、子供のように目を輝かし、こころからうれしそうだった。
「小樽にそっくりだよ」
と、仰向けに寝ころんだまま、彼はなつかしそうに渋紙をはった壁や、そそけたひくい天井を眺めながらいく度もくりかえした。
こうして寝ころんでいると、なつかしい記憶や、いろんな思い出が、つぎつぎと浮かんでくるものとみえ、大きな声で笑っているかと思うと、髪をみだし、足をまげて、ぼんやりと思いにふけっていた。それからまた、静かにからだをおこして楽しそうに話しかけた。こんなとき、彼はときどき、お母さんのことや、幼いころの思い出を話して聞かせるのであった。(手塚英孝「小林多喜二」下巻「回想」より)
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それからある日のこと、「君はどうだ、小説を書く気はないか」と、とつぜん私にきいた。私は少してれてしまって、返事にまごつきながら、「四十ごろから書きはじめようか」と笑いながら答えた。すると彼は妙な顔をして笑った。そのつぎにまた同じ場所で会ったとき、彼はまた同じことを私にたずねた。私は同じような返事をした。すると彼は、また妙な顔をして笑った。
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「この生活では長編はなかなかむつかしい。」と言う多喜二。「私は彼の日常生活をかなりくわしく知っていただけに、いつの間に小説を書くのだろう、とむしろ不思議に思ったほどである。」と手塚。
「誰か、体全体でぶつかって、やる奴はいないかなあ。……死ぬ気で、書く奴はいないかなあ」
「個人的生活が同時に階級的生活であるような生活」をいとわぬ小説家がいないことが歯がゆかったのだろうか?いや、当時の状況の中でおそらく多喜二は自分の命がそう長くないと覚悟していたのだろう。だから彼は自分と同じ思想の作家が一人でも増えて作品を残すことを望んでいたのではないか?手塚に対する「君はどうだ、小説を書く気はないか?」の問いかけにはそんな意味が込められていたのではないかと思う。つづく
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