2008年10月28日

手塚英孝と小林多喜二

手塚英孝著「小林多喜二」上下巻、この本を何度手に取ったことだろう。その度ごとに私は新たな感動に包まれたものだ。不屈な革命的芸術家に対する尊敬のこころと、同志としての愛情に満ちた文章、綿密な考証で解説されたその生い立ち、そして「死」。小林多喜二の伝記としてはまさに圧巻、これ以上の評論は過去にもないし今後もないだろう。作品そのものに関する評論は不破哲三をはじめ多くが著しているが、同時代に同じ使命のもとに活動した経験を書いているところに手塚の本の強みがある。

その手塚であるが、多喜二との交友期間はそれほど長いわけではない。多喜二が上京したのが1930年3月、多喜二27歳のときである。彼はプロレタリア作家同盟の活動家として活動を始め、翌年共産党に入党する。それから彼が非合法生活に入るまでの間はまさに、検束、投獄、拷問の繰り返しであった。豊多摩刑務所から出獄のあと書いた「独房」では出廷の護送車の中から見た風景を描写している。
「N町から中野へ出ると、あのノロい西武電車がいつの間にか複線になって、一旦雨が降ると、こねくり返る道がすっかりアスファルトに変わっていた。」

1932年、多喜二が実生活で関った「藤倉工業」は、後の作品「党生活者」の「倉田工業」のモデルであるが、この会社の臨時工労働者の実態はまさに現在のワーキングプアと同じであった。
・皆入社する時に、「3月までしか使わぬ」という契約書に判を押して、承諾させられており
・4月になればまた沢山の仕事が来ることがわかっているのに、散々コキ使ってクビにされ
・一方本工からは「生意気だ、でしゃばりだ」と言われ、本工との結びつきは困難であり
・こんな条件で「首切り反対だ」、「臨時工を本稿になおせ」という要求のもとにたたかうのはかなり困難
という状況だった。どうだろう?現代の「非正規雇用社員」と、どこが違うだろう?

その後多喜二は地下生活に入る。多喜二自身「個人的生活が同時に階級的生活であるような生活」と呼んだ生活にである。この地下生活を題材に書かれた「党生活者」を読み、そこに書かれた所謂ハウスキーパーと主人公との確執をめぐって「わが意を得たり、これぞ共産主義における女性の哀れな姿さ」とばかりに非難を集中する人もいる。例によって新左翼出身の私の友人も、飲むたびにこれを持ち出したりする。しかし考えてもみて欲しい、あの弾圧下での党活動がどのようなものであったかを。まさに「ブルジョア的」な恋愛など奪われた極限状況なのである。批判の多くがこの手のブルジョア人道主義的発想であることは仕方のないことかもしれないが。

さてこの地下活動の中で多喜二は手塚とはじめて出会うのである(1932年4月)。それから1933年2月に29歳で虐殺されるまでのたった11ヶ月が多喜二と手塚の交友期間なのである。つづく
posted by takashi at 21:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画・文学・音楽など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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