その手塚であるが、多喜二との交友期間はそれほど長いわけではない。多喜二が上京したのが1930年3月、多喜二27歳のときである。彼はプロレタリア作家同盟の活動家として活動を始め、翌年共産党に入党する。それから彼が非合法生活に入るまでの間はまさに、検束、投獄、拷問の繰り返しであった。豊多摩刑務所から出獄のあと書いた「独房」では出廷の護送車の中から見た風景を描写している。
「N町から中野へ出ると、あのノロい西武電車がいつの間にか複線になって、一旦雨が降ると、こねくり返る道がすっかりアスファルトに変わっていた。」
1932年、多喜二が実生活で関った「藤倉工業」は、後の作品「党生活者」の「倉田工業」のモデルであるが、この会社の臨時工労働者の実態はまさに現在のワーキングプアと同じであった。
・皆入社する時に、「3月までしか使わぬ」という契約書に判を押して、承諾させられており
・4月になればまた沢山の仕事が来ることがわかっているのに、散々コキ使ってクビにされ
・一方本工からは「生意気だ、でしゃばりだ」と言われ、本工との結びつきは困難であり
・こんな条件で「首切り反対だ」、「臨時工を本稿になおせ」という要求のもとにたたかうのはかなり困難
という状況だった。どうだろう?現代の「非正規雇用社員」と、どこが違うだろう?
さてこの地下活動の中で多喜二は手塚とはじめて出会うのである(1932年4月)。それから1933年2月に29歳で虐殺されるまでのたった11ヶ月が多喜二と手塚の交友期間なのである。つづく
【映画・文学・音楽などの最新記事】